カメラやめません

なんかカメラの話をしていいらしいじゃないか。というわけでやります。

 

 

経緯

私が6月に書いたブログ(ご覧になった方も多いことでしょう)

parsel-y.hatenablog.com

私が8月に書いたブログ(初めてご覧になる方が多いでしょう)

farewell.hatenablog.com

 

 

さて。だいたい最近の私は、Vとエロゲの話題を少し、あとは全部カメラの話と写真のツイートばかりしているので、『あのオタクはカメラをやっているらしい。』というぐらいのイメージは、皆様に持っていただいているものと思います。

 

で、そんな話をしてもしょうがないというか、少なくともカメラを楽しんでいる各位の興を削ぐようなことはしたくなかった、自分はそれなり複数のフォロワーがカメラ買うのを後押ししてきたから、その責任は多少あると思うし、もっと正直に言って、『カメラをやっている人間』として、ある程度フォロワーにはカッコつけたままでいたかったから、言わなかったのだけど、実は、ちょうど2ヶ月前ぐらいから、『もうカメラやめてえなつーかやめたすぎる。』と思うようになりました(なっていました)。

今はそこまでマイナスの感情ではないですけれど、全盛期?に比べれば、やや疲れも感じるというか、モチベーションが落ち着いているのは確かだと思います。とにかく、ここしばらくは、ひたすら『結局カメラって/写真ってなんだっけ?』といったようなことを考えていました。

 

ただ、しばらく考えて、結局、とりあえずまだまだやりたいことがあるな、というか、自分はきっとカメラをやめられないんだろうな、と思うようになったので、

①誰かに読んでもらうとして、暇潰しぐらいにはなるだろう、話のオチというか着地点が見えた。 

②誰よりも自分のために、後で読み返せるようなもの=未来の自分がまた何かに迷わないように、保険となるもの、を残しておきたかった。 

ので、これを書くことにしました。

 

 

何となく長くなる気がしますが、適当にお付き合いください。

 

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これとか実は一番モチベ死んでたとき

 

 

機材の話

 

そもそも。なんで私はカメラに冷めていたのか?

これを説明するには、少々機材の話をしなければなりません。興味ない人はごめんね。

 

さてカメラには、『センサーサイズ』という概念があります。そもそも、カメラが写真を撮る、のはどういう仕組みかといえば、レンズが集めてきた光を、カメラの本体に搭載された『イメージセンサー』に投影して、これを画像データに変換する。昔のフィルムカメラでは、レンズが集めてきた光を、ちょうどビデオテープのようにくるくると広がったフィルムの、1枚分の大きさの部分に当てる≒焼き付けるようにして、1枚の写真にしていたわけで、このフィルムの役割を、固定された『イメージセンサー』で、デジタルに代替するから、『デジタル』カメラなわけですね。

 

f:id:Parsel_Y:20201006034344j:plain↑フィルムの例、この1枚の大きさがいわゆる『(35㍉)フルサイズ』

↓デジタルの例、このまんなかに見えてる部分が『イメージセンサー

OM-D E-M5 MarkIII|OLYMPUS

 

さて、鋭い方にはなんとなく察しが付くと思うのですが、あなたは、今、カメラの開発者で、とにかくめっっっちゃ高画質な写真を撮りたいとします。どうしますか?

答えは、そう、めっちゃデカい『イメージセンサー』のカメラを作ればいいですよね。消しゴムサイズのフィルムに写真を押し込めて焼き付けるより、文庫本サイズ、A4サイズ、なんなら冷蔵庫サイズ(は冗談ですが。)のフィルムにのびのび写真を焼き付けたほうが、そりゃ高画質というもの。

 

ただ、まぁ当たり前の話で、もし『イメージセンサー』を大きくするなら、もちろんカメラ本体や、それに組み合わせるレンズも大きくしないといけない。テレビ局のスタッフみたいなバカでかいカメラをいつでもどこでも構えられればいいけど、そんなのは現実的じゃない。テレビ局といえどセンサーサイズは実際2/3型だったりするけどそもそも3板式のしかも100倍ズームとか効いちゃうビデオカメラと比べてもしゃあなくない?でかいもんはでかい。

というわけで、今日の、一眼レフカメラを作っている各メーカーは、ある程度のセンサーサイズ、具体的には(主に)3つの規格があって、小さい方からそれぞれ『マイクロフォーサーズ』『APS-C』『フルサイズ』と呼ばれるものに落ち着いたわけです。(統一感なさすぎて草、もっと『Sサイズ』『Mサイズ』『Lサイズ』とかにしろよ。)

 

で、ようやく本題。何がダメだった(ダメなんだと思い込むことになってしまったか)って、私が買ったのは、なんとまぁ、いちばん小さい『マイクロフォーサーズ』のカメラだったんです。そもそも私が最初にカメラを選んだときには、『値段』と、それから『見た目』しか見ていなかったので(うるせえオタクだって推しのこと顔で選んでるだろうがよボケ!!!)、こんなことになってしまったんですね。でも見た目はマジで良くない???

 

E-M10 Mark II MKII|Olympus

 

そして、『いちばん小さい』規格であるからには、もちろん価格やサイズの面で有利でも、やっぱり性能的に不利な部分があります。それは色々あるけれど、私が一番気にしたのは、『ダイナミックレンジ』と『階調』の部分でした。

 

 

どんな写真がすきなのか

 

さて、ダイナミックレンジ?階調?とはなんぞや?を話す前に(というか飽きられそうだから適当に端折るよ)、そもそも私が好きな写真ってなに?どんなやつ?という話をしたいと思います。

 

その昔、私がカメラを買ってしばらくしたころ、ボケ~っとflickr(写真に特化したインスタみたいなやつです)を眺めていて、『ほげっ』と来た写真がありました。リアルに変な声出たし、マジで鳥肌立った。今でも覚えている。それがこれ。

Treeline Skyline II

 

 

で、自分が撮ってきた中ではどんなのが好きかと言えば、やっぱりこんなあたり。

PB046070

 

PB100166

 

 

それから、やたらと空の写真を撮る。

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…だいたいわかってもらえました?そう、結局私は、極力シンプルで、コントラストのはっきりした、グラデーションの出る写真が好きらしい。

 

こういう写真を綺麗に撮ろうとするとき、カメラには、明暗が表現できる=『広いダイナミックレンジを持つこと』、グラデーションが表現できる=『豊かな階調を持つこと』、目で見た色をきれいに描写できる=『色再現性が高いこと』が求められます。そして、私の選んだ、小さいセンサーサイズのカメラは、こういうことが苦手だったわけです。

 

そのわけを具体的にお話ししましょう。 『ダイナミックレンジ』や、『階調』、それに裏付けされた『色再現性』という性能は、先ほど紹介した『イメージセンサー』の、『画素ピッチ』≒『1画素あたりの面積』によって左右されます。

例えば、皆さんも疑問に思ったことがあるかも知れませんが、よく広告で『ウン千万画素搭載!』って目にしますよね。特に、最近のスマートフォンには『1億画素モード』なんてものまであります。一方で、今や最強カメラメーカーとなったSONYの現行最強カメラ、『α7RⅣ』は、たったの『6000万画素』。では、どちらのカメラが綺麗な写真を撮れるのか?

 

もちろん後者です。ありとあらゆる状況で、圧倒的に。なんで?

楽珈|Coffee roaster

 かーるつぁいす。

 

カメラの画素数、というのは、つまり、その『イメージセンサー』が、いくつの区画に分けられているか、ということを意味します。ひとつの区画には、ひとつずつ『フォトダイオード』なる、受け止めた光を電気信号に置換するパーツが設置されておりまして、つまり、『1億画素』のスマホには、この『光受け止めるくん』が1億個、例のSONYの最強カメラには6000万個、装備されているということになります。

 

しかしここで思い出して欲しいのが、スマホと一眼レフでは、そもそもの『センサーサイズ』がまったく違う、そして、『光受け止めるくん』ひとりひとりの性能も、環境=ざっくり言えば、ひとりあたりに割り当てられた面積によって、全く異なってくる、ということです。

 

同じ画素数でも、そもそものセンサーサイズが大きければ、そのぶんひとつの画素に割り当てられる面積は広く≒『光受け止めるくん』の性能もそれぞれ高い。一方、その面積が狭ければ、『光受け止めるくん』の性能も低く、例えば…

『あーこれは明るいっすね。明るいんでもう白です。真っ白。画面全部真っ白になっちゃったw』

『あーこれは暗いっすね。ちょっと明るい部分あるけどよく見えねぇしもう全部黒でいいでしょ。はい真っ黒w』

『これ何色だと思う?黄緑?んな色知らねえよ俺は緑と黄色しかわかんねえの。中間とかないの。はいじゃあこれは真っ黄色w』

『この壁は木目がザラザラしてるっすね。でもそんな細かい部分まで描写するのはダルいっすよ。とりあえず茶色の板っぽくしといたんでw(のっぺり)』

 

…といったような具合になるわけです。ですから、私がさっき挙げた『明暗』や、『グラデーション』、『色の再現』といった要素に、それから、いわゆる、多くの人が『解像感』や『画質』と感じるようなものに、『センサーサイズ』が大きく関わってくることがお分かりいただけるかと思います。

 

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だからこういう、『窓の外はめっちゃ明るいけど車内は暗い』みたいな写真は、小さなセンサーのカメラでは苦しい。空のグラデーションが不自然なのも伝わると思う。

 

そして、私のカメラは例の、いちばん小さい『マイクロフォーサーズ』でしたから、より大きなイメージセンサーの『APS-C』や『フルサイズ』のカメラに比べると、なーんかダイナミックレンジも狭いし、階調も乏しいし、いい色も出てこない…ことはないけど。

ざっくり言って『どう足掻いても撮れる画はショボいし、周囲のカメラオタクに勝つとか負けるとか言う以前に、勝負の土俵にすら立ててなくねw』感がものすごくて、興醒めしたというか、こんな金ドブしないと続けらんねえ趣味はさっさとやめっか、やめだやめ、という気分になったわけでした。

 

 

じゃあマイクロフォーサーズってダメなの?そのフルサイズってやつを買えよ

 

さて、ここまで散々マイクロフォーサーズ中傷ダメ出しこき下ろしブログのようなものを書いてきたわけですが、けれどもじゃあ、いまのところ、私に、そのフルサイズってやつを買う気があるか、買うことに意味があると思うか、と言われれば、これは全くないと思います。即答です。国からワンモア10万円が、いや100万円が配られたとしても、たぶん違う使い道を考えると思う。

ここから先は、気持ちの問題というか、私の精神的な、写真に対するスタンスの話になると思うのですが、お気持ち表明に移る前に、最後に少しだけ、きちんと理屈の面から『マイクロフォーサーズの長所』についてお話ししておきたいと思います。そうでもしないと●リンパスに殺されそうだからね

 

 

さて、普段スマホで写真を撮るときにはあまり意識することはないと思いますが、カメラ(にくっついてるレンズ)には『焦点距離』というものがあります。これはいわば、『その写真がどれぐらいワイドか/ズームか』を表す指標のようなものです。正確には、レンズの主点≒中心点から撮像面=センサーまでの距離を表すのですが、まぁ定義はどうでも良くて、要は 

・ワイドに撮りたいときには焦点距離の短い=薄いパンケーキみたいなレンズでいい 

・ズームで撮りたいときには焦点距離の長い=デカいバズーカみたいなレンズが要る 

というふうに思っていただければいいと思います。

 

1_SEL400F28GM_wA9_Exp.May2020_re5-Large

 バズーカの例(160万円)

 

これまで言ってきたように、マイクロフォーサーズは、フルサイズやAPS-Cに比べて小さなセンサーサイズを持つ、具体的にはフルサイズに比べて、ちょうど縦と横がそれぞれ1/2、面積にして1/4の大きさのセンサーを持ちます。

そして、スマホのカメラを『ズームする』ときを思い浮かべてほしいのですが、『ズームする』というのはつまり、写真の真ん中の部分を『切り取る』のと同じことですよね?縦と横をそれぞれ1/2に、ちょうど真ん中1/4の面積を切り取れば、『2倍』ズームしたことになる。

そう、ですから、仮にまったく同じレンズを、フルサイズのカメラと、マイクロフォーサーズのカメラに刺したときでは、後者では、自動的に『2倍』ズームした写真が撮れるわけです。同じ大きさのバズーカでも、倍の大きさのバズーカと同じ働き=長い焦点距離が期待できるし、もし逆に、最初から同じだけズームされた写真=決められた焦点距離の写真が撮りたいならば、持っていくのは半分の大きさのレンズでいい。カメラの本体がコンパクトなら、レンズもコンパクト。これがまず第一の利点。

 

Leica DG 200mm f/2.8|Panasonic

 このサイズで、さっきのバズーカと同じだけの画角が撮れます

 

次に、『寄れる』ということです。これも、普段スマホで撮るときにはあまり意識しないと思うのですが、カメラというのは、そのレンズの焦点距離が長くなればなるほど、手前の方にはピントが合わなくなる=撮りたいものに対して近づく、『寄る』ことができなくなっていきます。

これが意外とシビアで、多少気をつけてレンズを選ばないと、例えばレストランに来て、テーブルに乗った料理を…座ったままじゃ撮れないやんけ!とか、手に持ったアイスクリームを、反対の手でカシャッと…撮れないやんけ!ということが発生します。

そして、そろそろ聞き飽きたと思うのですが、マイクロフォーサーズなら、同じ写真を撮る時に、フルサイズに比べて半分の焦点距離のレンズで済みますから、(仮に同じスケールのレンズ構成を持つとすれば)半分の距離まで被写体に近づくことができる、というわけです。

 

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『被写体をどれだけ大きく写せるか』は、またレンズ自体の焦点距離も勘案して、『最大撮影倍率』で表せるのですが…今回はややこしいので割愛します

 

後はまぁ、カメラが軽いから三脚も軽いやつでいいとか、データサイズがデカくないからクソ高いSDカードを刺さなくてもいいし、PCに負荷をかけることもないとか、まぁおまけは色々ありますが。それはカメラ自体の話ではないので、今回はいいでしょう。

 

 

写真の価値、とは何か

 

さて、 さきほど『けれどもじゃあ今、私にフルサイズを買う気があるか、買うことに意味があると思うか、と言われれば、これは全くない』と言いましたが、これはなぜか。

 

もちろん、先日某氏が挙げたように、金銭的な制約は私にもある、特に私の場合、写真を撮るということは旅行に行くこととかなり同意義ですから、高いカメラ買った!けど外に出る金は無くなってしまいました ~FIN~ ではお話にならないわけです。

けれど、それとはあくまで別に、今回は、『結局、カメラで、なにがしたいのか。』の観点から、決着をつけておこうと思います。

 

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例えばこれを見て、『なるほど灯台ね』と思うでしょうけれど、私にとってはこれが大切な場所で、その理由や、私がここを何度も訪れた記憶や感触、のようなものは、私しか持っていない。けれど、そういう『雰囲気』が、もしかしたらこの1枚に乗っかっていればいいなと思うのです。

 

写真の価値、には2つの側面があると思います。ひとつは、『記録としての写真』。もうひとつは、『作品としての写真』。

もちろん、2つの意味は完璧に独立したものではありません。例えば記録としての写真=沖縄に行って、友達と記念写真を撮ったとしても、その写真がブレッブレでは良くありませんし、また作品としての写真=美術館の壁にポツンと掛けられるような写真でも、その裏には必ず、撮影者と被写体のストーリーがあり、ともすればそのストーリーを、鑑賞する者が“察する“部分まで含めて、写真の価値があるとも言えるでしょう。

ですが、私は、このタイミングで、結局そのどちらを自分は大切にしたいのか、を、改めて確かめなければならないと思うのです。

 

 

さて、私には、後悔していることと、それから、感謝したいことがあります。

後悔からお話ししましょう。

 

例えば私は、自分の撮った写真というものを頻繁にツイートします。私の周囲にもそういう人は多くいるし、なんなら、いわゆる『写真垢』として、数千数万のフォロワーをもつフォトグラファー(?)を、誰でも一度ぐらい見たことがあると思います。#〇〇カメラ部、みたいな。

ところで、それは、その写真を『見る』人、世の中大多数の『カメラをやってない』人にとって、『カメラをやりたくなる』きっかけに、なれているでしょうか?

 

 

 

 

 

あくまで断っておくと、そもそも、私の写真というのは、そこまで大したものではありません。もちろんそれなりに、自分の写真のことは自分で好きだけれど。けれど、それよりも先に、それよりもずっと好きな、『誰かの写真』が、たくさんあるのです。

私が写真を撮るということは、誰かに見てもらうことと同義であり、誰かに見てもらった数と同じだけ、『誰かの』写真を見たい。そして、できれば、その『誰か』が、見ず知らずの人よりは、顔見知りであって欲しい。

何かの写真を見たときに、『あ、あいつは今こういうことをしているんだな。こういうものを見たんだな。こういうものを、きれいだと思ったんだな。』と思える、そういう、いわば写真という手段を使ったコミュニケーションが、あくまでも私のやりたいことではないかと思うのです。

 

けれど、少なくとも私のいる界隈では、私がポコポコ写真を投下して、TLのオタクと機材についてギャーワー騒ぐ一方で、私が勝手に『こいつそのうちカメラ始めそう(引きずり落としたろ)』と思っている身内からは、むしろ、『カメラヤクザ怖い。ハードル感じるわ。』なんて反応が出ている。正々堂々フルサイズを生やした身内さえ、むしろ機材にプレッシャーを感じてしまう。全く逆のことが起きているのです。

これはあまりに悔しいというか、悲しいことです。ハッキリ言って厄介カメクラそのものなんだよね

ここで改めて、ありえんクソデカい127db直管環状族並の音量で言っておきたいのですけれど、カメラにハードルはありません。ハードルがあるみたいに言ってくるやつは自分に酔ってるだけ。もし各位がカメラを始めて、それに対して『え?それで?(笑)』みたいなことを言う奴がいたら、私が出張してボコボコにします。逆にボコボコにされるかもしれないけど。ほんの1ミリでも、私や、誰かの写真がいいなと思ってもらえたら、むしろ自分でカメラを始めてほしいんですよね。だって、私はあなたの写真が見たいから。

 

ですから、今後も活動をするとして、どうやって『楽しそうに』その様子を伝えるか、ということが、ひとつの目標にはなるかもしれません。

 

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『行ったことがある』人と『まだ行ったことがない人』なら、見方も変わってくるはず。そういうのが面白いところだと思う。私はまたそこに行きたいし、そこに行った『誰か』の写真も、見てみたい。

 

 

感謝もお伝えしましょう。

私がその、さっぱりモチベーションが無くなっていた時期から、とりあえずここまでは戻ってくることができたのは。『私の』写真が好きだと言ってくれた、それはTLでだったり、通話でだったり、行動でだったりしたけれど、他でもない、その各位のおかげにほかなりません。ありがとうございました。

 

結局、私がモチベーションをふっ飛ばしていたのは、『作品としての写真』を、誰かのそれと比べて。その端的な良し悪しばかりを比べていたからだと思うのです。車に乗るのに、景色を楽しんでドライブするのではなく、毎秒ひたすらマリオカートばりのタイムアタックを繰り広げるようなものです。そりゃ疲れます。

例えば、ちょうど車の話をしたけれど、私はある車に乗っています。これはその昔、私が物心ついた頃に(小学生になろうかという頃に)我が家にやってきて、未だにお下がりとして私に乗り潰されている、とっても可愛そうな車なのですが、こいつは車オタクが大好きなマニュアルトランスミッションでもないし、別にコーナーだってシャープに曲がらないし、高速に乗ればまあまあうるさい。最近は隙間風が吹いて寒いし、夏は夏でエアコンが(あんまり)効かない。

 

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もちろん、ほかのいろいろな… ウン百馬力だったり、アホみたいに重心が低かったり、背中の後ろにエンジンがあるような車にも乗ったことがありますし、それはそれで楽しいものだと思いました。シートふっかふかの高級車で、エアコンガンガンに回して滑るように走ったこともある。けれど、じゃあどれに乗りたいか?もし日本一周をするとして、どの車に乗りたいか?と言われると、それは間違いなく、例のポンコツなわけです。それはなぜか?

 

 

結局、カメラも、車も、ほかの全てもー 道具でしかないわけです。敢えて冷たいような言い方をするけれど、道具でしかない。私らの使ったようにしか動きません。自分で運転しなけりゃ、車はどこにも連れて行ってくれないし、自分でシャッターを切らなければ、カメラが写真を吐き出してくれることもない。

そして、それを『使う』ことが大前提なら。同様に、それが『誰の』道具かということが、私らが、その道具をどこまで『自分のものに』できているか、ということが、本質であると思うのです。少し違うけれど、手に馴染む、とか、落ち着く、とか、そういう表現でもよいかもしれません。誰の道具でもない、私の道具が、いま、私のものになっている。その感覚を確かに掴まないうちは、なにかの不満を道具のせいにしたとしても、結局、乗り換えた先で、また同じような壁に行き当たるはずで。このカメラは前のに比べて高画質だとか、この車は前のに比べて加速がいいとか、それは大変結構なことだけれど、じゃあそれに『慣れて』きたとき、どうするの?

『撮ったもの』=『結果』を肯定できないとき、『撮るためのもの』=『過程』を肯定できる道理が、あるはずがない。その逆も然り。そしてそれは、誰かと比べるもの、相対的なものではなく、あくまで、絶対的なもの、自分で決めるものであるはずです。

 

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『私の』写真を好きだと言ってくれる人がいる以上。私が、『私の』カメラが好きだと思える以上。そこにあるのは、私が、私のカメラを使ったのだ、私の写真を撮ったのだという事実であり、それ以外は、そのほかの全ては、あまりに些細なことです。私には、私のカメラを好きだと思える以上は、それを使い続ける義務があり、それが、ある意味で、物言わぬ『道具』への、私らなりの、責任のとりかたのようなものではないでしょうか。

 

 

さいごに

 

散々書いてきたけれど(思ったより時間がかかってしまった。)、なんだか癪なので、この記事の3つ目のねらい、を、ここで付けておきたいと思います。

 

③ 誰かにカメラを始めさせる

 

まるで昔を見てきたような口ぶりで言うのはなんですが、我々消費者は、ことカメラ業界において、今、本当に恵まれた時代です。各メーカーの製品は、厳しい淘汰を乗り越えて、本当に洗練されてきています。それでいて、技術的な制約から、単純な画質の面では既に頭打ちが来ていますから、入門機でも、なんなら1世代前の中古でも全然怖いぐらいの写真が撮れるし、今それなりのものを買ってしまえば、この先10年でも戦えるでしょう。

適当に手にとって、これがいいな~と思ったやつを、直感で買えばいいと思います。人には人の数だけ、その経験と感性があるし、それはその人だけのものです。それを、なにかの形にして、誰かと共有することがあれば、それはとても素敵なことではないでしょうか。

 

 

そういうことが、少しでも伝わればいいなと思って、これからもやっていきたいと思います。お付き合いありがとうございました。今後ともよしなに。

 

 

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