Ⅰ.
オタクがカメラを買って一年半が経ったらしい。なので、使えそうな写真を使ってそれっぽい振り返りをしてみよう、という試み。
各写真のレタッチ、はできるだけ当時のものを採用しています(今回の記事にあたってやり直してません)。
他のショットも見たい人はこっち。https://www.flickr.com/photos/182073059@N06/
以下、2019年2月よりスタート。買ったのは18年の12月だったんだけどね。
注:★は初登場のレンズ、の意
2019年2月 / 神戸 摩耶山 ★zuiko14-42mm/f3.5-5.6
初めて『写真のために』出掛けた一枚。写真のために出かける、とは、つまり予め想定した撮影地があり、その撮影地についてグーグルマップなり現地なりに下見をして、天候と時間の都合が整ったときにそこへ行く、というプロセス。つまり写真には、『ここに行けばこういう画が撮れる』と想定して行く場合と、『とりあえずこのあたりを歩いたらこういう画が撮れました』という2つの場合があって、この先の写真もそれぞれ、結果としてそのどちらかに分けうる、かつ明確な意味の違いがあると思う。
2019年3月 / 神戸 北野異人館 ★zuiko25mm/f1.8
初めて『被写界深度』を意識した一枚。意識した、というよりは、撮ったものを見返して―何が良かったか?、を考えたときに、初めて被写界深度という言葉に行き当たった一枚。
2019年3月 / 白川郷 ★zuiko75mm/f1.8
相変わらず被写界深度、だけれど、『レンズの値段の暴力』を知ってしまった頃の写真。さっきのは2万円。これは8万円。あと、このときの写真のツイートがやたらと伸びたせいで要らんこと:自己顕示欲を知った、かも知れない。
2019年4月 / 京都 高瀬川 zuiko75mm/f1.8
カメラを手に入れて、では何を撮りたいか?と言われれば『桜』、と答えることは最初から決めていて、そのことを初めて納得の行くレベルで実現したな、という一枚。今思えば、特に構図とか?ちょっと違うだろ~?と思うところもあるのだけど、きっと今日撮った一枚ですら、また1年後の自分は否定するだろうから、その意味ではこれで良いかな~とやはり思う。
2019年4月 / 奈良 又兵衛桜 zuiko75mm/f1.8
有名撮影地、に初めて乗り込んだのだけど、あんまり楽しい場所ではなかった。
2019年4月 / 大阪 恵美須町 zuiko75mm/f1.8
はじめて『スナップ(?)』に取り組んでみたときの一枚。
写真の駅は既に取り壊され、この場所にない。
2019年4月 / 紀伊日御碕 zuiko25mm/f1.8
風景画を、昼間に、きちんと撮ったのはきっとこのときが初めてだったと思う。以後の個人的定番スポットになった。zuikoの25mm、は基本的に優等生で、今考えても世話になったな~とは思える。
2019年5月 / セリカちゃん zuiko25mm/f1.8
人の車を撮って遊んだ日。オーナーが嬉しそうだったので自分も嬉しい。
2019年8月 / 神戸 摩耶山 ★LAOWA7.5mm/f2.0
はじめての超広角+はじめての納得行くレベルの夜景、を撮った日。
2019年8月 / 香川 男木島 LAOWA7.5mm/f2.0
超広角のよさ=画面の広さ=情報量の多さ=その場所の雰囲気を最大限ストレートに乗せること、を感じた一枚。しばらく壁紙がこれだった。
2019年8月 / 愛媛 来島海峡大橋 LAOWA7.5mm/f2.0
この時代に、デジタルで写真を撮る、ということは、つまり加工:レタッチ(盛る)、乃至合成(捏造?)という作業から逃れられない、ということであり、レタッチは当然として、合成:正確には多重比較明合成/コンポジット、に初めて取り組んだ一枚。簡単に言うと、15分間同じ位置で連写し続けた写真を、上に上に重ねていくことで、船や車の光跡(海の上に伸びてるやつ)を写したり、空の色を(夕焼け+夜)÷2、みたいな色にしたりしている。
2019年8月 / 鳴門海峡 zuiko25mm/f1.8
四国よりの家路半ばに、助手席の窓を全開にして撮った一枚。もちろん、私は運転者ではない。
2019年8月 / 津軽 三厩駅 zuiko75mm/f1.8
青森まで来てめっちゃ曇ってるじゃんうんち、と思っていたのだけど、一箇所だけ雲の切れ間があってエモかった。
2019年9月 / 沖縄 zuiko75mm/f1.8
虹を撮ったあと、空の青色だけを減算した一枚。やたら流れの速そうな雲っつーか、そもそも雨が降らないと虹は出ないのだけど、翌日無事台風が上陸して、私は那覇空港から帰れなくなりました。
2019年9月 / 明石海峡大橋 LAOWA7.5mm/f2.0
車のエアコンがぶっ壊れて効かなかった日。ごめんね。LAOWAの7.5/2.0はMFT超広角の唯一のまともな選択肢だと思うのだけど、ちゃんとピントを追い込めばこれぐらいは写せる。
2019年9月 / 和歌山 煙樹ヶ浜 zuiko25mm/f1.8
夏の終わりの1枚。
2019年10月 / 大阪 中之島 LAOWA7.5mm/f2.0
散歩中に撮った一枚。鈴木なんとかさんにべた褒めされたので今回入選。
2019年11月 / 山梨 LAOWA7.5mm/f2.0
冬のダイヤモンド。星景写真ってマジでハードルが高くて、まずクソ田舎に行かないといけないし、新月は年に12回しかないし、季節によって星座は違うし、そもそも曇りとか雨ならアウトだし、ただ晴れてても湿度があったり風があったりするとダメ。人生であと何回このレベルを狙えますかね?
2019年11月 / 湘南海岸 zuiko75mm/f1.8
湘南を感じたので俺も今日から陽キャ。ウェイ。
2019年11月 / 鳥取 大山 zuiko75mm/f1.8
なんか、これすごい好きなんすよね。一応言うと、山頂付近を、麓から写しています。
2019年11月 / 京都 高台寺 zuiko25mm/f1.8
手持ち撮影の限界に挑んだときの一枚。これはSS1/3秒。暗いとこで写真を撮ろうとすれば、たくさん光を集める=長くシャッターを開かねばならず、すると写真がブレる可能性も高くなる。なので、きれいな写真を撮るために、オタクが一生懸命息を止めてカメラをじっと構える、なんて状況が生まれる。
2019年12月 / 堺 ★voigtlander17.5mm/f0.95
換算35㍉時代の始まり。カメラにはズームの幅=いろんな焦点距離、があるけれど、ではそのうち何ミリが『標準』なのか、ということについて、今日ほとんどのメーカーは『50㍉』レンズを提示している。いわゆる『撒き餌レンズ』の代表格:キャノンのEF50mm/f1.8なんかがその代表例で、これまでのうち『zuiko25mm/f1.8』と書いてあるものが(MFTでは焦点距離を2倍するため)その標準レンズ、で撮ったもの。けれど、もしかして自分には35㍉の方が合うのではないか?と思って、voigtlander17.5mm/f0.95を導入した。
2019年12月 / 藤沢 伊勢山公園 voigtlander17.5mm/f0.95
年末に東京に行く機会があって、それに託けて聖地巡礼とかをしたのだけど、旅先であればあるほど『身軽さ』というのは重要な要素で、要はレンズは1本にしたかった。で、自分にとっての35㍉が ”本当に” 標準ならば、極端な話それ一本でも困らないはずだろう、と思って(ついでに言えば、エロゲの背景なんてのはだいたい35㍉ぐらいで描かれている)この時はvoigtlander17.5mm/f0.95だけを持参した。
2019年12月 / 元町・中華街 voigtlander17.5mm/f0.95
で、意外と行けた、というか、このレンズがそもそもクソ面白くてハマったという話。
2020年1月 / 天下茶屋 ★LUMIX G 25mm/f1.7
一応セカンドオピニオン、というわけではないけれど、25㍉(換算50㍉)もきちんと持っていて、このときは確かアサヒカメラかなんかを読んで?モノクロがやりたかった&アスペクト比1:1つーかスクエアが気に入っていた。
2020年3月 / 京都 糸屋 / 八坂の塔 voigtlander17.5mm/f0.95
さっきも言ったけど。京都をトコトコ歩いてなんか撮りましょう、なんて時には、事実上使えるレンズは一本しか無くて、次いで言えば、その単一の焦点距離を所与:前提としての制約にすることで、かえって自分の側が、割り切ることができる、おそらく全ての芸術に共通するであろう(少なくとも音楽については、そうであったと思っている)適度な脱力、を実現しうるのか?と、思っていたり、いなかったり。とりあえず、没ショットの数は、それまでのどんなときよりずっと少なかった。
2020年4月 / 堺 ★SIGMA 60mm/f2.8 Art DN
2年目の春。こいつコスパ良すぎ。”いい意味で”レタッチのやりがいのあるレンズ。
2020年4月 / 自室
すていほーむで鬱ってた。
2020年6月 / 和歌山 熊野本宮大社 / 煙樹ヶ浜 / 紀伊日ノ御埼灯台 LUMIX G 25mm/f1.7
つい先日の。この日はα Sweetを生やしたこと/初見の場所じゃない:現地の様子を知っていたこと、もあって『今日はOM-Dは50単縛りするか』という気分。改めて振り返ると、結局35㍉が須くアス比率16:9であったのに対して、50㍉には 4:3 / 3:2 / 16:9 を任意に使い分けられる素地が(自分の中に)あるな、という感じ。結局換算50㍉とは、構図の作り方によって望遠でもあり:1枚目、広角でもあり:2枚目、少なくとも『真っ直ぐな』=『光学的な補正を抜きにした、画角感覚としてディストーションのない』画を撮るためには:3枚目、『標準』レンズを選ばねばならないし、また50㍉のレンズ達には『標準』を名乗る道理があるのだと思った。
総括:単焦点は面白いです。いいレンズ選びをしてください。
追記:lightroomのプリセットをいちど組み直そうと思っています
A
B
追記Ⅱ
いやでもほんとにそれはそう、オタクはある意味『他人のいい写真を』『見て』『機材で同ラインに立った時に』『負けん気で腕を上げよう』みたいな遊び方をしているフシはあるから 好きになり方は人それぞれであるべき
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
結局これなんだ いいカメラを使っているなら使っているだけ『どれだけ自分の写真が機材によって(現実から)盛られているか』もわかるはずで、もちろんそれ込みの感動もあるけど、最後に残るのはその時その場所にその気持ちでいた撮影者の事実、みたいなものだと思うんだ それはスマホでも変わらんはず
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
なんだろう、機材があるラインを超えた時『写真』はむしろ『絵』に近いのではないかと思っていて、例えばどでかいセンサーとどでかいレンズでどでかいボケの写真を撮ったとして、それは『美しい画』なのだけれど、人間の目には現実到底そうは見えてないじゃないですか
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
写真の本質は『その場の感触』であること、今日のカメラ技術はあくまでも手軽に現実を残すため、のラインを遥かに超えていること、けれど例えば小説や演劇がそうであるように、虚構ゆえに現実を上回るものもあって、そのためにハイエンドな機材はあるようなないような。
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
だから音楽や文字においてそうであるように、私にとってのカメラ?はあくまでも作品を通した自己表現、の場でしかなくて(ついでにもっとも万人に通じやすい手段であると思う)、だから常に満たされなくて悔しいし、まずは自分の腕を悔やむけれど、同様に機材を憎んでしまうこともままある、という話
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日