2019-2-28 / minori解散

 

平成の終わりに、minoriは解散あそばされました。

何を言えばいいかはわかりません。前座から始めさせてもらいます。

 

世界というのは、人生というのは、おそらくに『群像劇』ではないかと思うのです。

群像劇、すなわち個々の物語の、断絶し交流した、不連続的な集合体。

私が文字を書く時、それを読むあなたの物語がある。電車に乗り合わせた時、ひとり

ひとりに物語がある。行き先があり、帰る場所があり、そのそれぞれにまた物語が

ある。私と、あなたと、彼らの物語がある。

物語には前後と、左右の広がりがあります。前後とはつまり、過去と未来への繋がり

があるということ。左右とは、その時に、同時並列に存在するということ。

 

『群像劇』とは、言い換えれば "街" です。いえ、群像劇の舞台が、街であると言う

べきでしょうか。人がある場所に住む。ある場所に仕事を持ち、ある場所に学び、

ある場所で人と出会う。所帯をもち、時には遠くへ離れることもあるかも知れない。

でも、またいつか彼らは帰ってきます。それが街。

私とあなたと彼らの、行き先と、帰る場所と、出会いの場所が "街" なのです。

 

翻って、何故、雨宮優子の舞台は、『音羽』という "街" だったのでしょうか。何故、

古河渚は、街に運命を囚われていたのでしょうか。(efとCLANNADを並列に語ること

は、時代という観点から見てそうナンセンスでもないはずです。何せ2期が2期とも裏

番組でしたからね。)

それはつまり、彼女たちが、それぞれ『群像劇』≒ "街" の総体、ひとつの象徴であった

からではないでしょうか。もしご存知なら、それぞれのあらすじを、今いちど記憶から

なぞって、思い浮かべて欲しい。個々の物語が集約する地点として、彼らの行き先と、

そして最後に帰る場所として、彼女はそこにあったはずです。

 

もし、もうすこし広げた見方をするなら、例えば民の住まう国と、それを治める王女が

いるなら、それもまた住まう人々の群像劇と、それを象徴するヒロインの構図になるで

しょう。ユースティアとかね。

 

 

話を戻しまして。

minoriというのは、最もこんなところで知ったような口を聞いては怒られるに違いない

のですが、最後まで同人サークルであったと思うのです。それは、某社長の物言いや、

ゆるふわと告知されたいくつものグッズや、時には自らぶち上げたイベントや、ファン

に優しいんだか優しくないんだかのサバサバとした態度やら、でも会いに行けばなんや

かんやいつでも会えちゃうような距離の近さ(優しいじゃねぇか)。

何より作品の…その作り方に言えることです。

 

(以下引用)

2つ目は「自分たちが作りたい(または作ることができる)もの」と「みなさんが欲しいもの」の乖離を感じており、どちらかが無理をして合わせることはお互いにとって不幸でしかないからです。作品制作というものは、己の欲求を満たしていくものであると同時に、こと商業においては、お客様のニーズに応えていくものでもあります。「我々が作りたいもの」を欲して頂けるお客様が居るに違いないというのが、そもそもminoriのコンセプトだったわけですが、日に日に「求められる」ことが大きくなっていき(これは当たり前のことなのですが)、多様性を維持することがここ数年特に難しくなりました。そして、我々は「求められる」作品を作れるほど器用ではないということです。

(引用おわり)

 

この部分を読んだ時に、私は諦めるしかないのだということを、底の方で理解するに

至りました。そして同時に、最後まで(というほど長い間見ていたとは、とても言え

ないのですが)私の信じたminoriの在り方が保たれたことに、なにより感謝せずには

いられないと思ったのです。

私がよく読む人の言葉に、こういうものがあります。『世に広くウケた自作品の、何

が魅力であったかをよく洗練し、次に繋げるブランドだけが残っていくだろう。』

それは実にその通りです。しかし、またそれと同時に『作りたいものを、作りたいよう

に作ってくれる』ことが、私のようなものにとっては楽しかった。信者じゃねーか。

 

(以下引用)

minoriというブランドは、創設から現在までに関わってきた全てのスタッフたちの血と汗と涙と努力によって作られてきました。そのポリシーを曲げてまで存在し続けることは、過去から積み上げてきた何か大切なものを崩す気がします。よくスクラップ&ビルドとは言いますし、社会においては非常に重要なことではありますが、それによって出来上がる新たなチームはminoriという名を冠する必要はありません。

(引用おわり)

 

nbkzと愉快な仲間たち、でいいんですよ

結局、単価1万円に迫るような、作品買い切りの世界にあって、「俺はお前を信じる。

お前の感性と、今お前が作りたいと思うものを信用する。俺はお前の新作を買う。

だから、お前はお前の作りたいように(言うまでもなく、妥協のないように)それを

作ってくれ。」…という感覚は、別に何か大袈裟なものではない。むしろ当然の帰結

とさえ言えるものであって、その『信頼』を『砂の上に築く』ことが、現実世界に

落とし込まれた、"ブランドの名を冠すること"の総体ではないかと思うのです。

だから、もしまたいくらかのメンバーが集まったとしても、そこにminoriの名が冠

されることはない。

 

そもそも、私がminoriというメーカーに興味を持ったきっかけには、ある楽しい事件

ありまして。

フォロワーAがいました。Bがいました。AとBと私は互いに相互でした。Aはefを中古で

買いました。動きませんでした。公式対応にハネられた(minoriは中古品を、文字通り

認知しません)彼はゴニョゴニョに手を出し、Bはそれをスクショ、正確にはデスクトップ

の映り込みから公開処刑

で、それはその当時、ツイッターの結局ごく狭いエロゲーマー界隈で話題となり、もち

ろん元気な公式を巻き込んで(その頃は語尾にニヒッが付いてたと思いますが)、その

公式の愉快な(愉快な)物言いをさらなる燃料に盛り上がりを見せたのですが。

私はそのとんでもない態度に衝撃を受けると共に、(たぶん2個か3個前の記事に書いた

ような気がしますが)言いたいことははっきり言っちゃえ、という思考の人間なので、

その際に知り合った古参某氏のイントロダクションもあり、なるほどminoriに強烈な

印象を持ったわけでした。

 

その後暫く業界の流れのようなものを見て、また自分がいくつかのメーカーと作品に

触れ、それぞれの毛色について理解を深める中で、自分のやりたい作品、自分がどんな

作品を面白いと感じ、それを作り得るのはどんなメーカーなのかということについて

展望が開け始めた時、目線の先にminoriがありました。そういうことなんです。

 

モノを作るとはどういうことでしょうか。そこには常に、予算と、製作期間、より有り

体に言うなれば『発売日』という2つの制約があります。もし一切のそれらを廃した、

中世の画家とパトロンのような(最も彼らとてそう御伽話のような世界には居なかった

でしょうが)制作ができるなら見ものでしょうが…おそらくそれは、壊滅的な意味で、

実現し得ないでしょう。

価値あるものを作る時に、制約は必ずしも必要ではない。

しかし、価値あるものとは、須らく制約を乗り越えて生み出されてきた。

『俺たちには、このチームしかない。だから俺は、このチームで挑みたい。』

美しさとは、何らかの制約を乗り越える時に生まれるものではないかと思うのです。

 

後は何を言えばいいのでしょうか。ef、すぴぱら、そして夏ペルからの流れについて

補足するのは誰かがもっと上手にやるでしょう。クラファンとか、リメイクその他曲芸

とかは…絡めて話せなくもないですが、そもそも私はクラファンについては確かな考え

を持ちませんし、(なんかそんな記事があったと思うので、適当に "minori クラファン"

とかで検索してください) 後者に関しては、『minoriがそっちに走らなくて良かった』

なんて、言う方がどうかしています。

最後に、件の、"古参某氏"の言葉を拝借します。

 

minoriという物語が、舞台が完結したのだと思う』

 

私は、この恐れ多くも若輩の立場にあって、しかしそれ故に、また私にしか見ることの

できなかっただろう世界の中で、その、終幕を見届けることができて、幸せでした

『その日のminoriには、』。

 

R.I.P. "minori

ever, forever.

 

 

追記

散々萎え散らかした私でしたが、各オフィシャル方面のコメントを読んでたらなんだか

前向きな気持ちになったんですよ。私もまだまだですね。お疲れ様でした。