Vのメモ

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私見に則って言えば、まず『キャラクター』が『生身の人間』から離れて、好き勝手『再解釈』される時に、『生身の人間』が『もはやまともではいられない』というのは、?で、人間は意外にもっと器用だと思う。

 

『エゴを切り売り』する、『過激なコンテンツ』を取り込み、また自身がそれと化すことで話題性を取り、『企業』と『コラボ』でリスナーを(なるべく新規のタイミングで)囲い込む、という構図は(例えばオタクが『通話したことはないけど時々空リプは送るフォロワー』が、もし突然ディスコに来たとしても、それはむしろ歓迎だな、と思うように)コミュニケーションツールとしての手軽さ、クッション性なり偶然性を『バーチャル』にもとめていた、具体的にVRChatのような選択肢を求めていた、人にとって、耐え難いものがあることは理解できる。

 

オタクが、某寝ずにゲームしてる女子大生とか、サナトリウムとか、一番当てはまるのは委員長か🍁あたりか、を『良いな』と思って:率直に言ってそれら意外、の非常に大きな数のVを『一回ちらっと見て』『なんか違うわ、となって』『スルーして』きたのはそこだとも思っていて、(主語をデカくしてしまったので緩く読んでほしいけど)挙げられるのは、

・あくまでも本人が楽しい、楽しめることだけをして

・自分という『コンテンツ』を俯瞰する、デザインする、逆算してその中心に立つ力量があって

・その結果として、まず『近すぎず』、次いで『遠すぎない』

ことだと思っている。

 

補遺

>>偶然性、という言葉を先に挙げたけれど、オタクの(主体的にVを追いかけているわけではないが、もしそれが面白ければ、面白いものはふつうに好きなので見てもいいと思うオタクの、)見ているVは大抵に『オタクから布教されたもの』であり、その意味では偶然性があるかも知れない。

 

結局冒頭で、あの記事の、あの部分を取り上げたのは 芸能界:テラスハウス から エロゲ:ゆずソフト まで、おそらくどの文化であっても、その『成熟』(と呼ばれてしまっているもの)の段階で、古典的な『大衆化』と『大量生産/消費』のコンテクストから逃れることはできず、そして、いちオタクがそれに対して起こしうる行動は、自身の力量をもってそれに噛み付く、噛み砕こうとすることでしかない。だから、オタクは来たるべきその時のために、日々力量を高めようとする、Aとして『知識を蓄えておかなければならず』、Bとして『ものの見方、を訓練しなければならず』、そのためにインプット/アウトプットを行っていけ、自身が消費するコンテンツの『質』を常に追求せよ、というのは、蓋し金言である、と思った次第である。