アオイトリ あかり√

あかり√の感想記事本公開verとなるはずだったものです。

一応、書くことを予定/意図していた内容はすべて網羅されています。

暫定公開verとあわせてお読みいただければ、全てが伝わると思います。

 

以下本文


☆『青い鳥』の解釈の話

メーテルリンクの『青い鳥』において、チルチルとミチルは青い鳥を追いかけ、

"その過程として"、幾つかの国を訪れ、それぞれで重要な示唆を得る。

一般的に解釈して言えば、これは個人が人生において幸せ=青い鳥を求め、

その過程で幾つかの局面を迎え、それぞれの場面で何らかの気付き

(これは「小さな悟り」と言ってもいいかもしれない)を得ることのメタファーだ。

ここで取り上げる"国"は、『思い出の国』、『天国』、『未来の国』の3つ。

 

・思い出の国

『思い出の国』では、そこから出た青い鳥は黒くなって息絶えてしまう
=思い出の中でしか青い鳥で居られないことを知る。

ここで言う『思い出』とは、文字通りに過去の記憶を指すものではない。

いつの間にか美化された「過去」であったり、現実にはない理想の「現在」であったり、殆どの人、まして自分はもちろん経験したことのない、しかしにわかに信じることのできそうな、素晴らしい「未来」。

端的に言うところの「幻想」を意味するものだ。

そして『黒くなった鳥』は、青い鳥=幸せな幻想と対比された、否定的な「現実」を意味するはずだ。

つまり。

幻想の中に『青い鳥』=幸福はなく、それを掴もうとする限り、たとえそれを掴んだと思っても『黒い鳥』=醜悪な現実が増えるだけであること。

幻想に希求することが、現実をより不幸にすること。はじめに、現実を認めること。
これが、『思い出の国』にある悟りだ。

 

・未来の国

順番が前後するが、『未来の国』の話を先にしよう。
『未来の国』では、これから生まれてくる子どもたちが、皆一つの『ギフト』を
持たされていること、そして生まれるときにそのことを忘れてしまうこと
=今生きている自分たちにも、『ギフト』があるはずのことを知る。

『ギフト』とは、必ずしも豊かな才能とは限らない。

例えばそれは"見えることのない目"であったり、"動かない足"であったりした。
"忘れてしまったギフトを思い出す"というのは、もちろん、文字通りに私達が「前世の記憶」とでも呼ぶべき何かを思い出すことではない。
自分のうちに、自分が未だに気づいていない『ギフト』=自分への素晴らしい贈り物だと思えるものを「見つける」ことだ。

"生まれるときにそれを忘れてしまっただけ"なことを知った私たちは、
「自分にも何か贈り物があるはずだ」という自信を持てる。
そして、『思い出の国』で、現実を肯定することを学んだ私たちは、
それがいかなる贈り物であっても肯定する勇気、言い換えるならば、今は短所や欠点に見えているものさえも肯定する勇気、を持てる。

いま、現実にある自分を「贈り物」として肯定すること。
これが、『未来の国』にある悟りだ。

 

・天国

『天国』では、天国=幸せの約束された場所が何処にあるのかを知る。
曰く、『母の抱擁を受ける時、そこは何処でも天国なのだ』と。
ここには何のメタファーもなくて、そっくりそのままの意味に捉えていいのではないか、と思う。

私が思うに、「神の祝福」は、その原初のモチーフに「母の無償の愛」があるはずだ。

~~~
母の愛こそが至上とされる価値観は、母の愛が「唯一無二の絶対性、無償性」を持つことにその根拠を持っているのではないか。
悪魔が代償を要求するのとは対照的に、神は人々に無償の愛を、「祝福」を与える。
~~~

そして、「母」の存在と行動が、『アオイトリ』の前提を作り、展開に大きな意味を持ってくる。


☆「道具」と「意志」の話

中略


☆海野あかりという人間の話

一言で言うならば、
海野あかりは「生きる意味」を必要とし。
      「平和な世界」を重んじ。
それを満たす方策として、「自分の無価値な命を、せめて尊い目的に供すること」を目指していた。

 

・海野あかりが憎んでいたものは『特別』だったのか?

見方によっては、海野あかりの行動には一貫性がない。
彼女は『アオイトリを憎悪し』=特別を憎みながら、特別の最たる主人公に恋をし、
その救済のために完全な自己犠牲を払い、一方で悪魔には完全な判決を下す。
これはどういうことか。

可愛さ余って憎さ百倍、憎しみは憧れの裏返し…言い回しには事欠かないが、
この場合の憧れと憎しみは分けて考えなくてはいけない。

まず、海野あかりが真に憎んでいたものは、『特別』ではない。
それは、彼女の重んじる平和に反するもの、
"特別であることに驕り、平凡を見下して愚弄しようとするその悪意"、

つまり悪魔だった。

そして、彼女は『特別』に、やはり憧れていた。
それは、彼女自身の、平凡な自分への自己否定から来たもので、
彼女は学園で『特別』に囲まれた立場に暮らす=『同じ舞台に立つ』ことを慰めとしていたし、あかり√の最後、たった一時でも"主人公"となれたことに恍惚を覚えていた。

確かに、彼女の白鳥律に対する感情の中には、特別の憎悪が、
"青い鳥の羽を潰し、地べたに叩きつけ、縊り殺してやりたい"という感情が
あったのかもしれない。そう解釈するなら、彼女の恋は一種の倒錯した感情であり、
あかり√の最後、山荘での豹変にまた一つ新たな意味が生まれることになる。
が、これは穿ちすぎた見方ではないかというのが個人的な意見だ。


・海野あかりは、白鳥律の何を愛したのか?

アオイトリ』を、海野あかりの視点に立って眺めること、

つまりメアリー/小夜/理沙の3√を「他愛ないよそごとの物語」とし、

あかり√乃至あかりトゥルーを「体験した現実」と捉えるならば、

海野あかりは、あかり√が始まった時点で、全ての算段をつけていたことになる。

それはつまり、彼女が既に、会ったこともない白鳥律に恋をしていて、

彼の救済が一つの大きな目的になっていたということだ。

 

彼女は、話に聞く白鳥律の、どんなところに魅力を感じたのか。

 

彼女は生きる意味を必要としていた。
彼女は平凡な自分を徹底的に自己否定していた。
自分には何か大それた意志をもつことなんてできない、
自分には何の贈り物もないという思い込みにさえ、無意識に陥っていた。

この時点で、海野あかりは「贈り物」と「意志」の関係について誤解している。
何物かを「贈り物」として肯定し初めて、それを使う「意志」が発生するのであり、
どんな意思を持つとしても、個人そのものが贈られた"物"を、イコールに道具とするのはナンセンスだ。
この誤解は最後まで続き、最後の展開点となる。

白鳥律は、悪魔の救世主の依代という「道具」そのものとして生まれた存在でありながら、その力を他者の幸福のために使うという「意志」を持っていた。
そして語られた3つの"可能性"で、彼は実際にその意志を行動に示した。
海野あかりにとって、彼が如何に眩しい存在であったかは、想像に難くない。

尊い意志を持ちながらも、忌むべき運命によってそれを虐げられている者がいる。
何も持たない自分であっても、命を投げ捨てる覚悟があるならば、その者を救うことが
できるかもしれない。無価値な自分の命を、せめて役に立つ「道具」にできるかもしれない。
それを、自分の生まれてきた「意味」にできるかもしれない。
それならば、と彼女は考えたのだろう。


つまるところ、彼女の立てた計画とは、
愛する白鳥律とその友人たちを救済し、憎むべき悪魔を成敗し、
憧れの『特別』を少しばかり、しかし完全に手に入れることで
彼女の人生に意味をもたせるものだったのだ。

 

既成分ここまで
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

簡潔な書き足し

なにぶん日が空いたもので事実誤認があれば申し訳ない

 

☆白鳥律の"悪魔の"救世主の形質はどこで決定されたのか

アオイトリ、幸福をもたらす神の救世主も

クロイトリ、不幸をもたらす悪魔の救世主も

どちらも救世主であることに、奇跡の力を持つことに変わりはないのです。

これは、目の前に出されたそばが「あたたかいそば」か「つめたいそば」か、

そのどちらかといったような問題です。

私が思うに、白鳥律の母(電話の悪魔によって「クロイトリ」と形容されていたはず)

が身籠ったとき、彼は何色のトリでもなかったはずです。

逆説的に言えば、もし彼が最初からクロイトリであったならば、

白鳥率の母が悪魔に追い立てられ、産み落としたものをあまつさえ殺そうとした、

その凄惨な過程を描く意味が生まれませんし、

これまでに述べてきた「道具と意志」「母の愛」「可能性の肯定」といったテーマに

繋がりが生まれないのです。

 

☆劇の脚本と結末の話

ふと気付いたことなのですが、『アオイトリ』の各ルートにおけるクリスマス?演劇の展開、

これは各ルートそのものの展開の縮図になっています。

なんとはない大団円を迎えた理沙√

種族の壁を超え、永遠に添い遂げることを選んだメアリー√

破滅的な幸福を拒み、希望の流浪に戻った小夜√

あかり√のそれは縮図、というよりそれ自体がそれ自体(語彙力)でしたね。

 

 

 

たぶん、次はサクラが舞う話の感想を書くと思います。

では