カメラやめません
なんかカメラの話をしていいらしいじゃないか。というわけでやります。
経緯
私が6月に書いたブログ(ご覧になった方も多いことでしょう)
私が8月に書いたブログ(初めてご覧になる方が多いでしょう)
さて。だいたい最近の私は、Vとエロゲの話題を少し、あとは全部カメラの話と写真のツイートばかりしているので、『あのオタクはカメラをやっているらしい。』というぐらいのイメージは、皆様に持っていただいているものと思います。
で、そんな話をしてもしょうがないというか、少なくともカメラを楽しんでいる各位の興を削ぐようなことはしたくなかった、自分はそれなり複数のフォロワーがカメラ買うのを後押ししてきたから、その責任は多少あると思うし、もっと正直に言って、『カメラをやっている人間』として、ある程度フォロワーにはカッコつけたままでいたかったから、言わなかったのだけど、実は、ちょうど2ヶ月前ぐらいから、『もうカメラやめてえなつーかやめたすぎる。』と思うようになりました(なっていました)。
今はそこまでマイナスの感情ではないですけれど、全盛期?に比べれば、やや疲れも感じるというか、モチベーションが落ち着いているのは確かだと思います。とにかく、ここしばらくは、ひたすら『結局カメラって/写真ってなんだっけ?』といったようなことを考えていました。
ただ、しばらく考えて、結局、とりあえずまだまだやりたいことがあるな、というか、自分はきっとカメラをやめられないんだろうな、と思うようになったので、
①誰かに読んでもらうとして、暇潰しぐらいにはなるだろう、話のオチというか着地点が見えた。
②誰よりも自分のために、後で読み返せるようなもの=未来の自分がまた何かに迷わないように、保険となるもの、を残しておきたかった。
ので、これを書くことにしました。
何となく長くなる気がしますが、適当にお付き合いください。
機材の話
そもそも。なんで私はカメラに冷めていたのか?
これを説明するには、少々機材の話をしなければなりません。興味ない人はごめんね。
さてカメラには、『センサーサイズ』という概念があります。そもそも、カメラが写真を撮る、のはどういう仕組みかといえば、レンズが集めてきた光を、カメラの本体に搭載された『イメージセンサー』に投影して、これを画像データに変換する。昔のフィルムカメラでは、レンズが集めてきた光を、ちょうどビデオテープのようにくるくると広がったフィルムの、1枚分の大きさの部分に当てる≒焼き付けるようにして、1枚の写真にしていたわけで、このフィルムの役割を、固定された『イメージセンサー』で、デジタルに代替するから、『デジタル』カメラなわけですね。
↑フィルムの例、この1枚の大きさがいわゆる『(35㍉)フルサイズ』
↓デジタルの例、このまんなかに見えてる部分が『イメージセンサー』
さて、鋭い方にはなんとなく察しが付くと思うのですが、あなたは、今、カメラの開発者で、とにかくめっっっちゃ高画質な写真を撮りたいとします。どうしますか?
答えは、そう、めっちゃデカい『イメージセンサー』のカメラを作ればいいですよね。消しゴムサイズのフィルムに写真を押し込めて焼き付けるより、文庫本サイズ、A4サイズ、なんなら冷蔵庫サイズ(は冗談ですが。)のフィルムにのびのび写真を焼き付けたほうが、そりゃ高画質というもの。
ただ、まぁ当たり前の話で、もし『イメージセンサー』を大きくするなら、もちろんカメラ本体や、それに組み合わせるレンズも大きくしないといけない。テレビ局のスタッフみたいなバカでかいカメラをいつでもどこでも構えられればいいけど、そんなのは現実的じゃない。テレビ局といえどセンサーサイズは実際2/3型だったりするけどそもそも3板式のしかも100倍ズームとか効いちゃうビデオカメラと比べてもしゃあなくない?でかいもんはでかい。
というわけで、今日の、一眼レフカメラを作っている各メーカーは、ある程度のセンサーサイズ、具体的には(主に)3つの規格があって、小さい方からそれぞれ『マイクロフォーサーズ』『APS-C』『フルサイズ』と呼ばれるものに落ち着いたわけです。(統一感なさすぎて草、もっと『Sサイズ』『Mサイズ』『Lサイズ』とかにしろよ。)
で、ようやく本題。何がダメだった(ダメなんだと思い込むことになってしまったか)って、私が買ったのは、なんとまぁ、いちばん小さい『マイクロフォーサーズ』のカメラだったんです。そもそも私が最初にカメラを選んだときには、『値段』と、それから『見た目』しか見ていなかったので(うるせえオタクだって推しのこと顔で選んでるだろうがよボケ!!!)、こんなことになってしまったんですね。でも見た目はマジで良くない???
そして、『いちばん小さい』規格であるからには、もちろん価格やサイズの面で有利でも、やっぱり性能的に不利な部分があります。それは色々あるけれど、私が一番気にしたのは、『ダイナミックレンジ』と『階調』の部分でした。
どんな写真がすきなのか
さて、ダイナミックレンジ?階調?とはなんぞや?を話す前に(というか飽きられそうだから適当に端折るよ)、そもそも私が好きな写真ってなに?どんなやつ?という話をしたいと思います。
その昔、私がカメラを買ってしばらくしたころ、ボケ~っとflickr(写真に特化したインスタみたいなやつです)を眺めていて、『ほげっ』と来た写真がありました。リアルに変な声出たし、マジで鳥肌立った。今でも覚えている。それがこれ。
で、自分が撮ってきた中ではどんなのが好きかと言えば、やっぱりこんなあたり。
それから、やたらと空の写真を撮る。
…だいたいわかってもらえました?そう、結局私は、極力シンプルで、コントラストのはっきりした、グラデーションの出る写真が好きらしい。
こういう写真を綺麗に撮ろうとするとき、カメラには、明暗が表現できる=『広いダイナミックレンジを持つこと』、グラデーションが表現できる=『豊かな階調を持つこと』、目で見た色をきれいに描写できる=『色再現性が高いこと』が求められます。そして、私の選んだ、小さいセンサーサイズのカメラは、こういうことが苦手だったわけです。
そのわけを具体的にお話ししましょう。 『ダイナミックレンジ』や、『階調』、それに裏付けされた『色再現性』という性能は、先ほど紹介した『イメージセンサー』の、『画素ピッチ』≒『1画素あたりの面積』によって左右されます。
例えば、皆さんも疑問に思ったことがあるかも知れませんが、よく広告で『ウン千万画素搭載!』って目にしますよね。特に、最近のスマートフォンには『1億画素モード』なんてものまであります。一方で、今や最強カメラメーカーとなったSONYの現行最強カメラ、『α7RⅣ』は、たったの『6000万画素』。では、どちらのカメラが綺麗な写真を撮れるのか?
もちろん後者です。ありとあらゆる状況で、圧倒的に。なんで?
かーるつぁいす。
カメラの画素数、というのは、つまり、その『イメージセンサー』が、いくつの区画に分けられているか、ということを意味します。ひとつの区画には、ひとつずつ『フォトダイオード』なる、受け止めた光を電気信号に置換するパーツが設置されておりまして、つまり、『1億画素』のスマホには、この『光受け止めるくん』が1億個、例のSONYの最強カメラには6000万個、装備されているということになります。
しかしここで思い出して欲しいのが、スマホと一眼レフでは、そもそもの『センサーサイズ』がまったく違う、そして、『光受け止めるくん』ひとりひとりの性能も、環境=ざっくり言えば、ひとりあたりに割り当てられた面積によって、全く異なってくる、ということです。
同じ画素数でも、そもそものセンサーサイズが大きければ、そのぶんひとつの画素に割り当てられる面積は広く≒『光受け止めるくん』の性能もそれぞれ高い。一方、その面積が狭ければ、『光受け止めるくん』の性能も低く、例えば…
『あーこれは明るいっすね。明るいんでもう白です。真っ白。画面全部真っ白になっちゃったw』
『あーこれは暗いっすね。ちょっと明るい部分あるけどよく見えねぇしもう全部黒でいいでしょ。はい真っ黒w』
『これ何色だと思う?黄緑?んな色知らねえよ俺は緑と黄色しかわかんねえの。中間とかないの。はいじゃあこれは真っ黄色w』
『この壁は木目がザラザラしてるっすね。でもそんな細かい部分まで描写するのはダルいっすよ。とりあえず茶色の板っぽくしといたんでw(のっぺり)』
…といったような具合になるわけです。ですから、私がさっき挙げた『明暗』や、『グラデーション』、『色の再現』といった要素に、それから、いわゆる、多くの人が『解像感』や『画質』と感じるようなものに、『センサーサイズ』が大きく関わってくることがお分かりいただけるかと思います。
だからこういう、『窓の外はめっちゃ明るいけど車内は暗い』みたいな写真は、小さなセンサーのカメラでは苦しい。空のグラデーションが不自然なのも伝わると思う。
そして、私のカメラは例の、いちばん小さい『マイクロフォーサーズ』でしたから、より大きなイメージセンサーの『APS-C』や『フルサイズ』のカメラに比べると、なーんかダイナミックレンジも狭いし、階調も乏しいし、いい色も出てこない…ことはないけど。
ざっくり言って『どう足掻いても撮れる画はショボいし、周囲のカメラオタクに勝つとか負けるとか言う以前に、勝負の土俵にすら立ててなくねw』感がものすごくて、興醒めしたというか、こんな金ドブしないと続けらんねえ趣味はさっさとやめっか、やめだやめ、という気分になったわけでした。
じゃあマイクロフォーサーズってダメなの?そのフルサイズってやつを買えよ
さて、ここまで散々マイクロフォーサーズ中傷ダメ出しこき下ろしブログのようなものを書いてきたわけですが、けれどもじゃあ、いまのところ、私に、そのフルサイズってやつを買う気があるか、買うことに意味があると思うか、と言われれば、これは全くないと思います。即答です。国からワンモア10万円が、いや100万円が配られたとしても、たぶん違う使い道を考えると思う。
ここから先は、気持ちの問題というか、私の精神的な、写真に対するスタンスの話になると思うのですが、お気持ち表明に移る前に、最後に少しだけ、きちんと理屈の面から『マイクロフォーサーズの長所』についてお話ししておきたいと思います。そうでもしないと●リンパスに殺されそうだからね
さて、普段スマホで写真を撮るときにはあまり意識することはないと思いますが、カメラ(にくっついてるレンズ)には『焦点距離』というものがあります。これはいわば、『その写真がどれぐらいワイドか/ズームか』を表す指標のようなものです。正確には、レンズの主点≒中心点から撮像面=センサーまでの距離を表すのですが、まぁ定義はどうでも良くて、要は
・ワイドに撮りたいときには焦点距離の短い=薄いパンケーキみたいなレンズでいい
・ズームで撮りたいときには焦点距離の長い=デカいバズーカみたいなレンズが要る
というふうに思っていただければいいと思います。
バズーカの例(160万円)
これまで言ってきたように、マイクロフォーサーズは、フルサイズやAPS-Cに比べて小さなセンサーサイズを持つ、具体的にはフルサイズに比べて、ちょうど縦と横がそれぞれ1/2、面積にして1/4の大きさのセンサーを持ちます。
そして、スマホのカメラを『ズームする』ときを思い浮かべてほしいのですが、『ズームする』というのはつまり、写真の真ん中の部分を『切り取る』のと同じことですよね?縦と横をそれぞれ1/2に、ちょうど真ん中1/4の面積を切り取れば、『2倍』ズームしたことになる。
そう、ですから、仮にまったく同じレンズを、フルサイズのカメラと、マイクロフォーサーズのカメラに刺したときでは、後者では、自動的に『2倍』ズームした写真が撮れるわけです。同じ大きさのバズーカでも、倍の大きさのバズーカと同じ働き=長い焦点距離が期待できるし、もし逆に、最初から同じだけズームされた写真=決められた焦点距離の写真が撮りたいならば、持っていくのは半分の大きさのレンズでいい。カメラの本体がコンパクトなら、レンズもコンパクト。これがまず第一の利点。
このサイズで、さっきのバズーカと同じだけの画角が撮れます
次に、『寄れる』ということです。これも、普段スマホで撮るときにはあまり意識しないと思うのですが、カメラというのは、そのレンズの焦点距離が長くなればなるほど、手前の方にはピントが合わなくなる=撮りたいものに対して近づく、『寄る』ことができなくなっていきます。
これが意外とシビアで、多少気をつけてレンズを選ばないと、例えばレストランに来て、テーブルに乗った料理を…座ったままじゃ撮れないやんけ!とか、手に持ったアイスクリームを、反対の手でカシャッと…撮れないやんけ!ということが発生します。
そして、そろそろ聞き飽きたと思うのですが、マイクロフォーサーズなら、同じ写真を撮る時に、フルサイズに比べて半分の焦点距離のレンズで済みますから、(仮に同じスケールのレンズ構成を持つとすれば)半分の距離まで被写体に近づくことができる、というわけです。
『被写体をどれだけ大きく写せるか』は、またレンズ自体の焦点距離も勘案して、『最大撮影倍率』で表せるのですが…今回はややこしいので割愛します
後はまぁ、カメラが軽いから三脚も軽いやつでいいとか、データサイズがデカくないからクソ高いSDカードを刺さなくてもいいし、PCに負荷をかけることもないとか、まぁおまけは色々ありますが。それはカメラ自体の話ではないので、今回はいいでしょう。
写真の価値、とは何か
さて、 さきほど『けれどもじゃあ今、私にフルサイズを買う気があるか、買うことに意味があると思うか、と言われれば、これは全くない』と言いましたが、これはなぜか。
もちろん、先日某氏が挙げたように、金銭的な制約は私にもある、特に私の場合、写真を撮るということは旅行に行くこととかなり同意義ですから、高いカメラ買った!けど外に出る金は無くなってしまいました ~FIN~ ではお話にならないわけです。
けれど、それとはあくまで別に、今回は、『結局、カメラで、なにがしたいのか。』の観点から、決着をつけておこうと思います。
例えばこれを見て、『なるほど灯台ね』と思うでしょうけれど、私にとってはこれが大切な場所で、その理由や、私がここを何度も訪れた記憶や感触、のようなものは、私しか持っていない。けれど、そういう『雰囲気』が、もしかしたらこの1枚に乗っかっていればいいなと思うのです。
写真の価値、には2つの側面があると思います。ひとつは、『記録としての写真』。もうひとつは、『作品としての写真』。
もちろん、2つの意味は完璧に独立したものではありません。例えば記録としての写真=沖縄に行って、友達と記念写真を撮ったとしても、その写真がブレッブレでは良くありませんし、また作品としての写真=美術館の壁にポツンと掛けられるような写真でも、その裏には必ず、撮影者と被写体のストーリーがあり、ともすればそのストーリーを、鑑賞する者が“察する“部分まで含めて、写真の価値があるとも言えるでしょう。
ですが、私は、このタイミングで、結局そのどちらを自分は大切にしたいのか、を、改めて確かめなければならないと思うのです。
さて、私には、後悔していることと、それから、感謝したいことがあります。
後悔からお話ししましょう。
例えば私は、自分の撮った写真というものを頻繁にツイートします。私の周囲にもそういう人は多くいるし、なんなら、いわゆる『写真垢』として、数千数万のフォロワーをもつフォトグラファー(?)を、誰でも一度ぐらい見たことがあると思います。#〇〇カメラ部、みたいな。
ところで、それは、その写真を『見る』人、世の中大多数の『カメラをやってない』人にとって、『カメラをやりたくなる』きっかけに、なれているでしょうか?
で、じゃあその中で自分がどんな写真を撮りたいですか、他人のどんな写真を見たいですか、ってなった時に『あいつが』『あの人が』それを撮ったんだな、ってことの意味がとても大きいと思うんですよ。1万RTされたインスタグラマーの写真もいいけど、顔見知りの食ったカツ丼を見るほうが面白いよねって
— ⭐️🐉 (@no_named_dragon) 2020年10月3日
"1万RTされたインスタグラマーの写真もいいけど、顔見知りの食ったカツ丼を見るほうが面白いよねって"
— 鈴木ひじき (@knsk_seaweed) 2020年10月3日
これいいこと言うな。確かにそうだ。それを見ることであー、あいつこんなうまそうなの食ってるんだな、何処のカツ丼だろう、俺も今度連れてってもらおうかな、とかいろいろ想像が広がる。
あくまで断っておくと、そもそも、私の写真というのは、そこまで大したものではありません。もちろんそれなりに、自分の写真のことは自分で好きだけれど。けれど、それよりも先に、それよりもずっと好きな、『誰かの写真』が、たくさんあるのです。
私が写真を撮るということは、誰かに見てもらうことと同義であり、誰かに見てもらった数と同じだけ、『誰かの』写真を見たい。そして、できれば、その『誰か』が、見ず知らずの人よりは、顔見知りであって欲しい。
何かの写真を見たときに、『あ、あいつは今こういうことをしているんだな。こういうものを見たんだな。こういうものを、きれいだと思ったんだな。』と思える、そういう、いわば写真という手段を使ったコミュニケーションが、あくまでも私のやりたいことではないかと思うのです。
けれど、少なくとも私のいる界隈では、私がポコポコ写真を投下して、TLのオタクと機材についてギャーワー騒ぐ一方で、私が勝手に『こいつそのうちカメラ始めそう(引きずり落としたろ)』と思っている身内からは、むしろ、『カメラヤクザ怖い。ハードル感じるわ。』なんて反応が出ている。正々堂々フルサイズを生やした身内さえ、むしろ機材にプレッシャーを感じてしまう。全く逆のことが起きているのです。
これはあまりに悔しいというか、悲しいことです。ハッキリ言って厄介カメクラそのものなんだよね
ここで改めて、ありえんクソデカい127db直管環状族並の音量で言っておきたいのですけれど、カメラにハードルはありません。ハードルがあるみたいに言ってくるやつは自分に酔ってるだけ。もし各位がカメラを始めて、それに対して『え?それで?(笑)』みたいなことを言う奴がいたら、私が出張してボコボコにします。逆にボコボコにされるかもしれないけど。ほんの1ミリでも、私や、誰かの写真がいいなと思ってもらえたら、むしろ自分でカメラを始めてほしいんですよね。だって、私はあなたの写真が見たいから。
ですから、今後も活動をするとして、どうやって『楽しそうに』その様子を伝えるか、ということが、ひとつの目標にはなるかもしれません。
『行ったことがある』人と『まだ行ったことがない人』なら、見方も変わってくるはず。そういうのが面白いところだと思う。私はまたそこに行きたいし、そこに行った『誰か』の写真も、見てみたい。
感謝もお伝えしましょう。
私がその、さっぱりモチベーションが無くなっていた時期から、とりあえずここまでは戻ってくることができたのは。『私の』写真が好きだと言ってくれた、それはTLでだったり、通話でだったり、行動でだったりしたけれど、他でもない、その各位のおかげにほかなりません。ありがとうございました。
結局、私がモチベーションをふっ飛ばしていたのは、『作品としての写真』を、誰かのそれと比べて。その端的な良し悪しばかりを比べていたからだと思うのです。車に乗るのに、景色を楽しんでドライブするのではなく、毎秒ひたすらマリオカートばりのタイムアタックを繰り広げるようなものです。そりゃ疲れます。
例えば、ちょうど車の話をしたけれど、私はある車に乗っています。これはその昔、私が物心ついた頃に(小学生になろうかという頃に)我が家にやってきて、未だにお下がりとして私に乗り潰されている、とっても可愛そうな車なのですが、こいつは車オタクが大好きなマニュアルトランスミッションでもないし、別にコーナーだってシャープに曲がらないし、高速に乗ればまあまあうるさい。最近は隙間風が吹いて寒いし、夏は夏でエアコンが(あんまり)効かない。
もちろん、ほかのいろいろな… ウン百馬力だったり、アホみたいに重心が低かったり、背中の後ろにエンジンがあるような車にも乗ったことがありますし、それはそれで楽しいものだと思いました。シートふっかふかの高級車で、エアコンガンガンに回して滑るように走ったこともある。けれど、じゃあどれに乗りたいか?もし日本一周をするとして、どの車に乗りたいか?と言われると、それは間違いなく、例のポンコツなわけです。それはなぜか?
結局、カメラも、車も、ほかの全てもー 道具でしかないわけです。敢えて冷たいような言い方をするけれど、道具でしかない。私らの使ったようにしか動きません。自分で運転しなけりゃ、車はどこにも連れて行ってくれないし、自分でシャッターを切らなければ、カメラが写真を吐き出してくれることもない。
そして、それを『使う』ことが大前提なら。同様に、それが『誰の』道具かということが、私らが、その道具をどこまで『自分のものに』できているか、ということが、本質であると思うのです。少し違うけれど、手に馴染む、とか、落ち着く、とか、そういう表現でもよいかもしれません。誰の道具でもない、私の道具が、いま、私のものになっている。その感覚を確かに掴まないうちは、なにかの不満を道具のせいにしたとしても、結局、乗り換えた先で、また同じような壁に行き当たるはずで。このカメラは前のに比べて高画質だとか、この車は前のに比べて加速がいいとか、それは大変結構なことだけれど、じゃあそれに『慣れて』きたとき、どうするの?
『撮ったもの』=『結果』を肯定できないとき、『撮るためのもの』=『過程』を肯定できる道理が、あるはずがない。その逆も然り。そしてそれは、誰かと比べるもの、相対的なものではなく、あくまで、絶対的なもの、自分で決めるものであるはずです。
『私の』写真を好きだと言ってくれる人がいる以上。私が、『私の』カメラが好きだと思える以上。そこにあるのは、私が、私のカメラを使ったのだ、私の写真を撮ったのだという事実であり、それ以外は、そのほかの全ては、あまりに些細なことです。私には、私のカメラを好きだと思える以上は、それを使い続ける義務があり、それが、ある意味で、物言わぬ『道具』への、私らなりの、責任のとりかたのようなものではないでしょうか。
さいごに
散々書いてきたけれど(思ったより時間がかかってしまった。)、なんだか癪なので、この記事の3つ目のねらい、を、ここで付けておきたいと思います。
③ 誰かにカメラを始めさせる
まるで昔を見てきたような口ぶりで言うのはなんですが、我々消費者は、ことカメラ業界において、今、本当に恵まれた時代です。各メーカーの製品は、厳しい淘汰を乗り越えて、本当に洗練されてきています。それでいて、技術的な制約から、単純な画質の面では既に頭打ちが来ていますから、入門機でも、なんなら1世代前の中古でも全然怖いぐらいの写真が撮れるし、今それなりのものを買ってしまえば、この先10年でも戦えるでしょう。
適当に手にとって、これがいいな~と思ったやつを、直感で買えばいいと思います。人には人の数だけ、その経験と感性があるし、それはその人だけのものです。それを、なにかの形にして、誰かと共有することがあれば、それはとても素敵なことではないでしょうか。
そういうことが、少しでも伝わればいいなと思って、これからもやっていきたいと思います。お付き合いありがとうございました。今後ともよしなに。
恋×シンアイ彼女
おことわり
読むに耐えなかったら帰ってね。
割と作品の感想ですらないです。
解釈
・『返事を出さなかった』のは、『そこで時間を止める』ことで、ひとまずにしばらく『星の音を聞けた』から
・結局互いに、互いのことでしか、良いものを書くことはできなかった
・だから、それが搾取でないような形で、2人が一緒にいるためには、落ち着いた環境や、なにより互いの成長が必要だった
・それがやっとわかったのが『3回目』ないしは『最後』ではなかったか
・特にコータローの方は、例のルポと『お前が』を書くことで、何かを理解しただろう
・いっぽう星奏は、一方的に返事を差し止めることで、少なくともまず5年間、その才能を搾取したことを詫びたかった、そのために、彼女なりの孤独を追体験しようとした
・で、そうしたお互いの成長と、相互理解の上にあって、はじめて、真に再会が果たされたのではないか。
・結局じゃあ全部なんだったのかというと、ガキが世の中に、状況に振り回されたということでしかなくて、その清算を終えることが、『青春』からの卒業だったのかもしれない
・例えば星奏が、彩音ぐらい『深愛』のタチだったら、奉仕精神に溢れたタイプなら、あるいはこんなめんどくさいことにはならなかっただろう
・才能を持ったタイプのキャラである以上、それを腐らせることは許しがたいというか、TRUEを名乗るならわかっているんだろうな?という節はあって
・唯一に疑問なのは、アレで再会したのち、それ以上互いに何かを書くことがあるんだろうか?と思ったけど…普通にありそうだな。めでたしめでたし。
引用と、散文
『多くの場合、俺は黙して何も語らないことを選んだ』
『言葉はいつだって、本当に大事なことをそのままちゃんと伝えてはくれない』
『だけど伝えることを諦められなくて…』
『彼女もそうだったのだろうか?』
『今となっては、何も分からない』
『結局のところ、最後まで彼女は何も語ってくれなかったから。』
ー冒頭
幸か不幸か、私は前から、この作品についてのいわゆる『下馬評』には聞き及んでいて、ですから彼女が消えることも知っていた。
けれど、少なくともこの期に及んで、私が手を付けようと思う作品は、そのネタバレがどうこうにはさっぱり興味はなくて、ただ物語としての価値があることを信じられる、きっと後に触れるだろうけれど、私がそれを読んだ時に、こうして何かを言い出したくてたまらなくなる、普段から言い出したくてたまらないはずのなにごとかを、かこつけて言いだす、その取っ掛かりになるだけの強度があるだろうことを、求めていて。
なぜ彼女は『最後まで何も語らなかった』、のか。それは逆説的に言って、現実に語られるものほど、理想に語られるべきではない、真に語られるべきもの、誰かが心から語りたいと願うものこそが、往々にして、現実には語られることがない、そういうことではないかと思う。
例えば、誰かはー私は今ある個人の存在を意図しているし、けれどそれに留まらない、不特定多数の該当者がいるだろうけれど、その誰かは、『恋×シンアイ彼女』について、何かを言い出したい、何かを語り伝えたいと思う一方で、実際には、ツイートや、感想記事の編集といった、そうした発信の作業に手を付けてはいないだろう。私も、ここで具体的な作品名を出すのが如何とは思えどー『マルコと銀河竜』や『ATRI』について、やはり何かを言いたいとは思ったけれど、結局のところ、手を付けてはいない。
なぜ言わなかったか?言えなかったのだ。言うべき時機を、逃したのだ。感想というものは、個人の感触というものは、恐ろしいほどに足の早い生菓子のようなもので、残念ながら私は鳥頭であるから、読了して、3歩も歩く前にーそれは冗談としても、感傷の賞味期限から外れた時に、つらつらとポエムを書けるほどの文才が、熱量がやはりあるわけではないから、勢いで走るより他にない、勢いを逃せば、沈黙するのである。
『取り残されるのが怖いからね』
『割り切って進まないと…どんどん置いていかれるよ』
ー通学路にて、新堂と仲直りしたのち
『焦燥感』という言葉が、たびたび登場したけれど、では敢えて『『恋×シンアイ彼女』とは、なんでしたか?』なんていうなら、それはやっぱり、焦燥感と、その根源たる執着の具現としての、『青春と、恋』の物語ではなかったか、と思う。
私らも、きっと何かを、毎秒に割り切っている。割り切らなければ置いていかれるから。一方で、それと全く同時に、『割り切ることからは、何も生まれない』『進むということは、何かを生み出すということは、むしろ、何かに執着することであるはずだ』と思っていて、だからこそ、時間という有限のリソースに対して、なにものを割り切るのか、執着するのかという選択に、日々恐怖しているのではないか。
青春というものが眩しいのは、やはり彼らがそうであったようにーそこにある彼、彼女が、『執着すること』に無邪気であるから、ではなかろうか。
『文字が表現している美しさとか、怖さとか…率直さみたいなものは、やっぱり、他には得難いものだと思う』
『そういうものを、ここで、いくつかの本を紹介しながらわかってもらえたらいいな…って思う』
ー文芸部の初日に
とにかく最近思うのだけれど、写真であれ音楽であれ、もちろん文学でさえ、うつくしいもの、を形容するには『絶望的』や『切実』なんて言葉が最もよいのではないか。
『恋×シンアイ彼女』の最後にあって、私は泣いた。泣くつもりはなかった。憶えている限り、エロゲでボロボロに泣いたことはなかったし(適宜感動はしているよ)、今回もまぁそうだと思っていた。物語が、終盤のほんとうの最後にさしかかって、CGが出て、笑って、曲が始まって、エンドロールに変わる。で、CGが出た瞬間には泣きが始まって、なんとかエンドロールまで見届けて、そのまま5分ぐらい、ヘッドホンのまま、眼鏡だけをひったくって外して、両手で顔を覆って泣いていた。
何故泣いたか?あまりにも切実だったから。バカを言え、台無しじゃないかと言うだろうが、ベンチの左に、彼女が戻ってくる光景が、あまりにも切実だったから。野暮な議論をするつもりはない。それに意味があるとは思わない。もはやどちらでもいい。ただ私は、彼自身の言葉を ー彼には星が掬えると信じているし、けれど、この作品の最後にあってああいう画を見せることは、やはり、どうしようもなく絶望的で、切実だと思う。
『20年近く生きると、人はひとつくらい伝説を持つものだと思う』
『そんなものはない、君は言うかもしれない』
『でもそんなことはない』
『誰にでも、ひとつはあるんだ』
『それはフィクションとして、空想のたぐいと一緒にされて、どこかにしまい込まれているんだ』
ー物語を読むときに、とくにエロゲ(ノベルゲー)の類においては、『自分を主人公を重ねる』読み方があるらしい。あるらしい、というのは、自分が『そちら側』ではない、との自負があってのことなのだけれど。
プレイの意思を匂わせると、また実際に開始を宣言すると、複数のオタクから『ガチで刺さるはずだからやれ』とか『遂に始めるのか』とか『一周回ってやめとけ』とか、言われたけれど、私が覚えてないだけで、身の上話でもどっかでしてたのか、オタクどもは何をどこまでわかってそう言っていたのか、まぁとにかく私のエピソードを挙げる。
・小学校2年か3年で、読書感想文が、総理大臣に表彰される一歩手前まで行った。
・6年生の卒業式すこし手前、初恋の子にラブレターを渡した。このことは、マジで、つい昨日まで、先のテキストを読むまで忘れていた。
・返事は未だにもらえてないし、今や、その子の連絡先すら知らない。もとより私立の小学校で(地元だの、校区という概念がない)、私は中学から別の県に移ったから。
・高校2年で、現文教師の気まぐれで応募された私の短歌が、某お茶のペットボトルに印刷される…一歩手前まで行った。(また、一歩手前なんだ。すまない)
・あの現文教師にはお世話になった。やはり作家志望だったと、どこかで聞いた。
・そのネタにしたのが、当時のやっぱり恋心で、まぁ言うことは言って、そんで相手が相手だけにどうにもならなかったのだけど、わりといい思い出かな、と思う。
『君に届くものを書くよ。君を感動させるものを。』
ー第2章
『届かなくたっていいじゃないか』
『書こう』
『夜のせいかな』
ー映画制作にあって
『なにかが足りない。』
『自分の内面から物語を拾い上げていく作業をしていると、ふと思うことがある』
『そういうときは好きな小説を読んだり、映画を見たり、資料を見返すことで、足りないなにかを埋めることができる』
『だけど、それだけじゃ埋まらないものが今ある』
『だけどそれが何かは分からない』
『分からないからもどかしい、分からないから手を伸ばしたい』
ーーーーーーーーーーーーーーーー
『飛び越えるためには、言葉が必要で』
『それを見つけられない』
人はやはり、実際にその内面にあるものーネガティブであれ、ポジティブであれ、なにかの事実ーエピソードと、それにまつわる感情なしには、なにものをあらわすこともできない、と思う。またその裏返しとして、だれかが、なにかを言うときにーほんとうにその意味によりそうためには、そのための材料となるエピソードが、自分の中になければならないと思う。主語を替えて、『あらわされるなにものか』=『ことば』は、共通するようなエピソードをもつものどうしにしか、共有され得ないし、完全に同一のエピソードが絶対に存在しない以上、完全なことばの共有、コミュニケーションというものは、絶対にないのだと思う。
追記:だからこそ、事実に基づいただけのエピソード、はむしろ効果的に人の胸に響く、なぜ某会長がラクダの出産話に負けたかと言えば、そういうことだと思う。
であるとして、だとしても、なぜ人は、『共有すること』から逃れられないのか。なぜ彼は、『小説を書くこと』を結局の手段としたのか、彼女は、『曲を書くこと』をすべての結果としたのか。
人が、その人生という、ある意味恐ろしいほどの、膨大な時間を過ごすにあたって、その間隙を埋められる、埋めてくれるものは、その役に足るだけの情報を、質と量の面から提供してくれるものは、『自分ではない誰かとのやり取り』だけであるように思う。
『曲を書くこと』も『小説を書くこと』も。それは単にアプローチの問題であって、例えば昼休みに交わす会話や、下駄箱に忍ばせるラブレターのように、誰かがそれをつくり、誰かがそれをうけとる、そのかたちである以上、誰かとのやり取り、コミュニケーションのひとつの方法でしかない。そして、そのやり取りの内実ー『誰か』からのレスポンスと、そのひとつひとつに対するトライ&エラーの過程に、その最も極端なかたちとしての”恋”に、人は意味を見出す、見出すようにできている、見出すよりほかに手段を持たないのではないか、と思う。
ー『俺は本が好きで、彼女は音楽を聞くのが好きで』『それぞれ好きなことを話していたけど、噛み合ってないようで、不思議と退屈じゃなかった』
ー『そんなタイプの違う二人だけど、確かにあの頃、とても仲良しだった』『よく一緒にいた』『彼女は音楽をきいて、僕は本を読んでいた』
ー『僕らはたくさんの話をしたわけじゃないけど、それでも、互いにとても多くのものを共有していた』
重ねてになるけれど。彼らはどうしようもなく、にたものどおしークソみたいに不器用で、バカみたいにすれ違うけれど、その、『何かを伝えようとする』姿勢に、その生き方に、どうしようもなく共通していて。だからこそ、彼らの物語が、どうしようもなく切実になる。そういうことだと思う。
『これ読んだら、なんか私のほうが、いろいろとすっきりしたわ』
『誰かがあなたを思っている、それさえ相手に伝わればいい』
ーそれぞれの√、1人目の依頼人から
『俺、そんなん書いたことないし…でも付き合ってから初めての誕生日だし、それがリクエストというなら、応えないわけにはいかないし…』
『ちゃんと伝えられたら、絶対に、あんな返事じゃなかった』
『だから、それが悲しいね』
ーそれぞれの√、2人目の依頼人から
それぞれ示唆的だと思う。
『…いや、いいじゃないか』
『今、二人でいるなら』
『だけど、長く俺の心に刺さっていたとげの正体を、俺は知らない』
『人は誰だって、目に見えている姿も性格も、氷山の一角みたいなものだ』
『大事なのはそれを知ることじゃなくて…それをぼんやりと想像しながら、そうして、ぼんやりと受け入れることじゃないかって思う』
『互いが、ぼんやりとした気持ちを共有しあって二人で一緒にいる』
『そういう形が、俺には大事に思えた』
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『俺、小説を書くよ』
『書くんだね』
ー第4章より
『さよならアルファコロン』
『少女は雑居ビルに住み着いたホームレスの女の子で、後に音楽の才能で有名になる。』
『そうして路地裏で出会った少年と再会、恋をする。それに、少女の両親と思われる人たちとの再会…』
『そして少女の才能は世界へと羽ばたいていく』
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『待ってたって来やしないさ。会いたいなら、探しに行くんだな』
『どうやって?』
『有名になれば、見つかるさ』
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『私はアルファコロン』
『それは路地裏に、夜空に。誰かが見た、浪漫だよ』
『どういうこと?』
『さよならっていうこと』
ー『さよならアルファコロン』より
『アルファコロンってなんだっけ』
『だから、どうか俺の言葉を聞いてください』
”””今度は、僕が君に星の音をあげるよ”””
だいたい怒られてもいいと思うのだけど、私は、すべての文学作品は結局『私小説』ではないかと、それなり真剣に思っていて。その意味は何行か前を読んでもらうとして、結局アルファコロンとは、アルファコロンを探している、再会を果たすことになる少年とは、それぞれ2通りの意味で、彼自身の、また彼女自身のことでもあり。結局『恋×シンアイ彼女』とは、彼らの再会と、別れと、『今度は、僕が君に星の音をあげる』ことができるようになるまでの、(約)20年にわたるのシンアイの物語、なんだと思う。
『それから』も、『お前が』も、『アルファコロン』は彼らの、いや彼の、文字通りにとりとめもないメッセージとして存在していて、それをー彼女がどこかで読んでいるのだろうという、結局その意味のためにあったものだろう。それは、むしろ文学作品としては全うな姿ですらあって、これは文豪ナントカ先生が、実は当時密かに想っていた誰某嬢に宛てて書いたものです、なんて作品は、本屋の棚にだっていくらでもある。
しかし、ではそれが彼女以外の誰かーその他大勢にとって、意味を持たない、一般的に文学の価値を持たないかと言えば、全くそうではない。そもそもなぜ、誰かに何かを伝えるのに、文学をやるのか。誰かの門出や、誕生日を祝うのに、一見関係のないような創作を贈るのか。それはつまり、直接的な言葉よりもー『言葉はいつだって、本当に大事なことをそのままちゃんと伝えてはくれない』から、その代わりに、なにかの物語が、文学というかたちが、相互の想像力の補完によってー『互いが、ぼんやりとした気持ちを共有しあって二人で一緒にいる』ことを、実現してくれるのではないか、そう期待できるからだと思うのだ。
だから、また言うけれど、私らは、全く同じ経験を、考えを持つ人間などはいないから、誰かに完璧に共感することなどできやしない。私は、誰の言葉にも共感することはできない。しかし、決して100でなかったとしても、50よりも90を、90よりも99を掴もうとすることは、そのためにあがくことは、あがくための手段を探すことに、真実=シンアイ、があるはずで。こんな言い方は卑怯かもしれないけれど、私は彼が、必ず小説に、小説を書くことに『帰る』だろう、これが創作物であり、その作り手が物書きである以上、逃れられずに彼を物書きに帰すだろう、そうでないならば物語の価値すら危ういと、本気で思っていたから。
ー『迷いながら何かを探し続けるあなたは、ずっと私のあこがれです』
そしてそれは、まったく同じように、彼女が音楽をやる理由でもあったはずだ。
Ⅰ.
オタクがカメラを買って一年半が経ったらしい。なので、使えそうな写真を使ってそれっぽい振り返りをしてみよう、という試み。
各写真のレタッチ、はできるだけ当時のものを採用しています(今回の記事にあたってやり直してません)。
他のショットも見たい人はこっち。https://www.flickr.com/photos/182073059@N06/
以下、2019年2月よりスタート。買ったのは18年の12月だったんだけどね。
注:★は初登場のレンズ、の意
2019年2月 / 神戸 摩耶山 ★zuiko14-42mm/f3.5-5.6
初めて『写真のために』出掛けた一枚。写真のために出かける、とは、つまり予め想定した撮影地があり、その撮影地についてグーグルマップなり現地なりに下見をして、天候と時間の都合が整ったときにそこへ行く、というプロセス。つまり写真には、『ここに行けばこういう画が撮れる』と想定して行く場合と、『とりあえずこのあたりを歩いたらこういう画が撮れました』という2つの場合があって、この先の写真もそれぞれ、結果としてそのどちらかに分けうる、かつ明確な意味の違いがあると思う。
2019年3月 / 神戸 北野異人館 ★zuiko25mm/f1.8
初めて『被写界深度』を意識した一枚。意識した、というよりは、撮ったものを見返して―何が良かったか?、を考えたときに、初めて被写界深度という言葉に行き当たった一枚。
2019年3月 / 白川郷 ★zuiko75mm/f1.8
相変わらず被写界深度、だけれど、『レンズの値段の暴力』を知ってしまった頃の写真。さっきのは2万円。これは8万円。あと、このときの写真のツイートがやたらと伸びたせいで要らんこと:自己顕示欲を知った、かも知れない。
2019年4月 / 京都 高瀬川 zuiko75mm/f1.8
カメラを手に入れて、では何を撮りたいか?と言われれば『桜』、と答えることは最初から決めていて、そのことを初めて納得の行くレベルで実現したな、という一枚。今思えば、特に構図とか?ちょっと違うだろ~?と思うところもあるのだけど、きっと今日撮った一枚ですら、また1年後の自分は否定するだろうから、その意味ではこれで良いかな~とやはり思う。
2019年4月 / 奈良 又兵衛桜 zuiko75mm/f1.8
有名撮影地、に初めて乗り込んだのだけど、あんまり楽しい場所ではなかった。
2019年4月 / 大阪 恵美須町 zuiko75mm/f1.8
はじめて『スナップ(?)』に取り組んでみたときの一枚。
写真の駅は既に取り壊され、この場所にない。
2019年4月 / 紀伊日御碕 zuiko25mm/f1.8
風景画を、昼間に、きちんと撮ったのはきっとこのときが初めてだったと思う。以後の個人的定番スポットになった。zuikoの25mm、は基本的に優等生で、今考えても世話になったな~とは思える。
2019年5月 / セリカちゃん zuiko25mm/f1.8
人の車を撮って遊んだ日。オーナーが嬉しそうだったので自分も嬉しい。
2019年8月 / 神戸 摩耶山 ★LAOWA7.5mm/f2.0
はじめての超広角+はじめての納得行くレベルの夜景、を撮った日。
2019年8月 / 香川 男木島 LAOWA7.5mm/f2.0
超広角のよさ=画面の広さ=情報量の多さ=その場所の雰囲気を最大限ストレートに乗せること、を感じた一枚。しばらく壁紙がこれだった。
2019年8月 / 愛媛 来島海峡大橋 LAOWA7.5mm/f2.0
この時代に、デジタルで写真を撮る、ということは、つまり加工:レタッチ(盛る)、乃至合成(捏造?)という作業から逃れられない、ということであり、レタッチは当然として、合成:正確には多重比較明合成/コンポジット、に初めて取り組んだ一枚。簡単に言うと、15分間同じ位置で連写し続けた写真を、上に上に重ねていくことで、船や車の光跡(海の上に伸びてるやつ)を写したり、空の色を(夕焼け+夜)÷2、みたいな色にしたりしている。
2019年8月 / 鳴門海峡 zuiko25mm/f1.8
四国よりの家路半ばに、助手席の窓を全開にして撮った一枚。もちろん、私は運転者ではない。
2019年8月 / 津軽 三厩駅 zuiko75mm/f1.8
青森まで来てめっちゃ曇ってるじゃんうんち、と思っていたのだけど、一箇所だけ雲の切れ間があってエモかった。
2019年9月 / 沖縄 zuiko75mm/f1.8
虹を撮ったあと、空の青色だけを減算した一枚。やたら流れの速そうな雲っつーか、そもそも雨が降らないと虹は出ないのだけど、翌日無事台風が上陸して、私は那覇空港から帰れなくなりました。
2019年9月 / 明石海峡大橋 LAOWA7.5mm/f2.0
車のエアコンがぶっ壊れて効かなかった日。ごめんね。LAOWAの7.5/2.0はMFT超広角の唯一のまともな選択肢だと思うのだけど、ちゃんとピントを追い込めばこれぐらいは写せる。
2019年9月 / 和歌山 煙樹ヶ浜 zuiko25mm/f1.8
夏の終わりの1枚。
2019年10月 / 大阪 中之島 LAOWA7.5mm/f2.0
散歩中に撮った一枚。鈴木なんとかさんにべた褒めされたので今回入選。
2019年11月 / 山梨 LAOWA7.5mm/f2.0
冬のダイヤモンド。星景写真ってマジでハードルが高くて、まずクソ田舎に行かないといけないし、新月は年に12回しかないし、季節によって星座は違うし、そもそも曇りとか雨ならアウトだし、ただ晴れてても湿度があったり風があったりするとダメ。人生であと何回このレベルを狙えますかね?
2019年11月 / 湘南海岸 zuiko75mm/f1.8
湘南を感じたので俺も今日から陽キャ。ウェイ。
2019年11月 / 鳥取 大山 zuiko75mm/f1.8
なんか、これすごい好きなんすよね。一応言うと、山頂付近を、麓から写しています。
2019年11月 / 京都 高台寺 zuiko25mm/f1.8
手持ち撮影の限界に挑んだときの一枚。これはSS1/3秒。暗いとこで写真を撮ろうとすれば、たくさん光を集める=長くシャッターを開かねばならず、すると写真がブレる可能性も高くなる。なので、きれいな写真を撮るために、オタクが一生懸命息を止めてカメラをじっと構える、なんて状況が生まれる。
2019年12月 / 堺 ★voigtlander17.5mm/f0.95
換算35㍉時代の始まり。カメラにはズームの幅=いろんな焦点距離、があるけれど、ではそのうち何ミリが『標準』なのか、ということについて、今日ほとんどのメーカーは『50㍉』レンズを提示している。いわゆる『撒き餌レンズ』の代表格:キャノンのEF50mm/f1.8なんかがその代表例で、これまでのうち『zuiko25mm/f1.8』と書いてあるものが(MFTでは焦点距離を2倍するため)その標準レンズ、で撮ったもの。けれど、もしかして自分には35㍉の方が合うのではないか?と思って、voigtlander17.5mm/f0.95を導入した。
2019年12月 / 藤沢 伊勢山公園 voigtlander17.5mm/f0.95
年末に東京に行く機会があって、それに託けて聖地巡礼とかをしたのだけど、旅先であればあるほど『身軽さ』というのは重要な要素で、要はレンズは1本にしたかった。で、自分にとっての35㍉が ”本当に” 標準ならば、極端な話それ一本でも困らないはずだろう、と思って(ついでに言えば、エロゲの背景なんてのはだいたい35㍉ぐらいで描かれている)この時はvoigtlander17.5mm/f0.95だけを持参した。
2019年12月 / 元町・中華街 voigtlander17.5mm/f0.95
で、意外と行けた、というか、このレンズがそもそもクソ面白くてハマったという話。
2020年1月 / 天下茶屋 ★LUMIX G 25mm/f1.7
一応セカンドオピニオン、というわけではないけれど、25㍉(換算50㍉)もきちんと持っていて、このときは確かアサヒカメラかなんかを読んで?モノクロがやりたかった&アスペクト比1:1つーかスクエアが気に入っていた。
2020年3月 / 京都 糸屋 / 八坂の塔 voigtlander17.5mm/f0.95
さっきも言ったけど。京都をトコトコ歩いてなんか撮りましょう、なんて時には、事実上使えるレンズは一本しか無くて、次いで言えば、その単一の焦点距離を所与:前提としての制約にすることで、かえって自分の側が、割り切ることができる、おそらく全ての芸術に共通するであろう(少なくとも音楽については、そうであったと思っている)適度な脱力、を実現しうるのか?と、思っていたり、いなかったり。とりあえず、没ショットの数は、それまでのどんなときよりずっと少なかった。
2020年4月 / 堺 ★SIGMA 60mm/f2.8 Art DN
2年目の春。こいつコスパ良すぎ。”いい意味で”レタッチのやりがいのあるレンズ。
2020年4月 / 自室
すていほーむで鬱ってた。
2020年6月 / 和歌山 熊野本宮大社 / 煙樹ヶ浜 / 紀伊日ノ御埼灯台 LUMIX G 25mm/f1.7
つい先日の。この日はα Sweetを生やしたこと/初見の場所じゃない:現地の様子を知っていたこと、もあって『今日はOM-Dは50単縛りするか』という気分。改めて振り返ると、結局35㍉が須くアス比率16:9であったのに対して、50㍉には 4:3 / 3:2 / 16:9 を任意に使い分けられる素地が(自分の中に)あるな、という感じ。結局換算50㍉とは、構図の作り方によって望遠でもあり:1枚目、広角でもあり:2枚目、少なくとも『真っ直ぐな』=『光学的な補正を抜きにした、画角感覚としてディストーションのない』画を撮るためには:3枚目、『標準』レンズを選ばねばならないし、また50㍉のレンズ達には『標準』を名乗る道理があるのだと思った。
総括:単焦点は面白いです。いいレンズ選びをしてください。
追記:lightroomのプリセットをいちど組み直そうと思っています
A
B
追記Ⅱ
いやでもほんとにそれはそう、オタクはある意味『他人のいい写真を』『見て』『機材で同ラインに立った時に』『負けん気で腕を上げよう』みたいな遊び方をしているフシはあるから 好きになり方は人それぞれであるべき
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
結局これなんだ いいカメラを使っているなら使っているだけ『どれだけ自分の写真が機材によって(現実から)盛られているか』もわかるはずで、もちろんそれ込みの感動もあるけど、最後に残るのはその時その場所にその気持ちでいた撮影者の事実、みたいなものだと思うんだ それはスマホでも変わらんはず
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
なんだろう、機材があるラインを超えた時『写真』はむしろ『絵』に近いのではないかと思っていて、例えばどでかいセンサーとどでかいレンズでどでかいボケの写真を撮ったとして、それは『美しい画』なのだけれど、人間の目には現実到底そうは見えてないじゃないですか
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
写真の本質は『その場の感触』であること、今日のカメラ技術はあくまでも手軽に現実を残すため、のラインを遥かに超えていること、けれど例えば小説や演劇がそうであるように、虚構ゆえに現実を上回るものもあって、そのためにハイエンドな機材はあるようなないような。
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日
だから音楽や文字においてそうであるように、私にとってのカメラ?はあくまでも作品を通した自己表現、の場でしかなくて(ついでにもっとも万人に通じやすい手段であると思う)、だから常に満たされなくて悔しいし、まずは自分の腕を悔やむけれど、同様に機材を憎んでしまうこともままある、という話
— ⭐️課題🐉 (@no_named_dragon) 2020年7月11日